城:縄張から普請まで 織田信長の城・安土城 第6回 |『信長公記』に見る主要部と現状遺構

日本城郭協会理事  加藤理文先生による「城:縄張から普請まで」をテーマにした講座、安土城編。『信長公記』が伝える、安土城の正月の「御幸の御間」見学ルートと現状遺構を比較してわかることとは?

『信長公記』には、安土城主要部(中枢部)内部の様子を克明に伝える天正10年(1582)正月の「御幸の御間」見学の記載がある。

原文については、奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(角川文庫ソフィア)が手頃なので、こちらを参照いただきたい。これによると、出仕者は〈摠見寺(そうけんじ)の毘沙門堂(びしゃもんどう)と舞台を見てから表門を入り、三の御門の内、天主の下の御白洲(おしらす)へ参上〉している。現状の遺構に合わせると、百々橋口(どどばしぐち)から〈摠見寺へ上がり、毘沙門堂と舞台を見学し、伝黒金門(でんくろがねもん)を入り、伝二ノ丸南虎口を入った天主下の伝二ノ丸東溜りにある白洲へ着いた〉ことになろう。

ここから織田家一門衆、諸国の大小名一同は、〈階段を上がり、座敷の中へ招き入れられ、恐れ多くも御幸(みゆき)の御間(天皇が訪れた時に入る部屋)を拝見〉している。これも現状だと〈伝二ノ丸東溜りにある白洲から階段を上がり、伝二ノ丸に位置する本丸御殿の座敷の中へ入り、御幸の御間を見学した〉となる。

安土城、二ノ丸東溜り、天守台、伝二ノ丸
図1 白洲のあった二ノ丸東溜り(右の石垣は天守台、奥は伝二ノ丸)

ついで、お馬廻衆・甲賀衆などが〈御白州へ招かれ、しばらく待っていると「白洲では皆々冷えるだろうから、南殿(なんでん)へ上がり、江雲寺御殿(こううんじごてん)を見物しなさい」という信長からの命が伝えられた。一同が最初に見学した江雲寺御殿の座敷は、すべて金で装飾され、各部屋とも狩野永徳に命じて、全国のあらゆる場所の風景が描かせてあった。四方の景色は、山や海、田園、村や郷があって、非常に興味深く、言葉には言い尽くせないほどであった〉、現状だと〈伝二ノ丸東溜りにある白洲から伝本丸へ上がり、伝三ノ丸を見学した〉となる。

安土城、伝三ノ丸西面石垣、江雲寺御殿
図2 伝三ノ丸西面石垣(この上に江雲寺御殿があった)

〈「ここから廊下続きを進んで、御幸の間を見なさい」との命で、恐れ多くも天皇が行幸になる御殿に招き入れられ、拝見したのは、非常にありがたく、一生の思い出となった。廊下から御幸の御間の間はすべて檜皮(ひわだ)葺きで、飾り金物が日に輝き、部屋の中はすべて金で飾られていた。四方の壁は金を下地に、絵画が描かれている。金具はすべて黄金で、魚子(ななこ)(彫金技法の一つ)の地文に唐草を彫り、天井は組入天井(梁や桁の間に角材を縦横にさし渡して格子を組み、裏から板を張った天井)で、上も下もまばゆく輝いて、心にも言葉にも出来ない驚きであった。畳は、備後表(広島県産で畳表のうちでも最上級品)で青々とし、縁は高麗縁(こうらいべり)(白地の綾に雲形や菊花などの紋を黒く織り出したもの)、雲絹縁(うんげんべり)(天皇・三宮・上皇が用いた最も格の高い畳縁)だった。正面より二間奥に、天皇の御座所らしく、御簾(みす)が下がって一段高まった上段の間があった。金によって光輝き、衣服に焚き染める香が四方に漂うすばらしい所だ。そこから東にいくつもの部屋が続いた。ここにも、金箔を下地に色彩豊かな絵画が描かれていた〉、同様に、現状では〈伝三ノ丸から本丸取付台を進んで、伝二ノ丸内部の御幸の間を見学した〉ということである。

〈御幸の御間を拝見した後、初めに控えていた御白洲へ降りると、「台所口へ来なさい」との命があったので行くと、信長は厩の入り口に立っていた。十疋(約1万円)づつのお祝い金を、恐れ多いことに信長自身が受け取って、後ろへと投げ入れた(後略)〉は、〈伝二ノ丸から、伝二ノ丸東溜りの白洲へ降り、伝台所へ向かうと途中の伝三ノ丸南郭の入口に信長が立っていた〉となる。

安土城、本丸南虎口、厩
図3 本丸南虎口(この奥が厩、信長はこのあたりに立っていた)

これらの記述でわかることは、御幸の御間には、階段を上がるルートと江雲寺御殿から廊下続きで入るルートがあったということである。『信長公記』によると、中枢部にあった建物は、①御殿主、②三の御門、③御白洲、④階段、⑤内部に御幸の御間がある御殿(本丸御殿)、⑥南殿、⑦江雲寺御殿、⑧厩、⑨台所となる。これを現状の遺構に当てはめてみよう。①御殿主は天主、②三の御門は伝二ノ丸南虎口、③御白洲は伝二ノ丸東溜り、④階段は伝二の丸東溜り、⑤内部に御幸の御間がある御殿(本丸御殿)は伝二ノ丸、⑥南殿は伝本丸、⑦江雲寺御殿は伝三ノ丸、⑧厩は伝三ノ丸南郭、⑨台所は伝台所ということになる。

安土城、馬廻、甲賀衆、御幸の御間、
図4 馬廻・甲賀衆「御幸の御間」見学ルート推定図(作成:加藤理文)
  A :摠見寺 ⇒ 三の御門 ⇒ 御白洲
  B :御白洲 ⇒ 南殿 ⇒ 江雲寺御殿
  C :江雲寺御殿 ⇒ 御廊下 ⇒ 本丸御殿(御幸の御間)
       D :本丸御殿 ⇒ 階段 ⇒ 厩の入口 ⇒ 台所

『信長公記』の記載を見る限り、階段~本丸御殿(御幸の御間)~江雲寺御殿~南殿はすべて渡廊下(わたりろうか)によって接続しており、外に出ることなく行き来が可能であった。上記のように現状遺構をあてはめた場合でも、外に出ることなく行き来ができる。少なくともこの比定で、『信長公記』の記載との矛盾点・問題点を見出すことはできない。

『信長公記』の天正10年(1582)正月の「御幸の御間」見学の素晴らしい点は、時系列にまとめていることに尽きる。これによって、現状遺構との比較が容易になり、安土城主要部にあった場所を矛盾点なく当てはめることが出来たのである。

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加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

著書 『織豊権力と城郭-瓦と石垣の考古学-』高志書院 2012年
   『江戸城を極める』サンライズ出版 2014年
   『織田信長の城』講談社現代新書 2016年
   『静岡県の歩ける城70選』静岡新聞社 2016年
   『日本から城が消える』洋泉社歴史新書 2016年 等多数

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