戦国武将と城|小和田哲男 <豊臣秀吉と城>第2回 秀吉の姫路入城と荒木村重謀反の真相

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。黒田官兵衛の居城であった姫路城が秀吉へ―。その真相とは。

黒田官兵衛の姫路城に入る秀吉

太田牛一の著した『信長公記』には、天正5年(1577)10月23日のこととして、「羽柴筑前守秀吉、播州に至つて出陣」とみえ、いかにも、突然のように織田信長の命令を受けて播磨に乗り込んだという書き方をしている。ところが、関係史料を追いかけると、秀吉はかなり以前から黒田官兵衛と連絡を取りあっていたことが明らかである。

すでにその年6月23日付で、秀吉が官兵衛に「向後、不日如何様にも隔心無く、諸事申し談ずべく候」(『黒田家文書』)と申し送っているが、この6月23日という日付に注目したい。柴田勝家率いる織田軍が上杉軍と手取川に戦って敗れたのは9月23日で、このとき、秀吉が戦線離脱をし、信長の怒りをかい、謹慎処分を受けたことはよく知られているが、その以前に、すでに秀吉は黒田官兵衛と接触していたのである。

秀吉が信長からつけられた1万5000の大軍を率いて播磨に乗り込んだのは『信長公記』にあるように10月23日である。ふつうならば、官兵衛の主君である小寺政職(こでらまさもと)御着城(ごちゃくじょう)に入るところであるが、秀吉は御着城を通り越し、官兵衛の居城姫路城に入っている。小寺政職の帰趨に不安を感じていたからと思われる。

そして注目されるのは、このとき、官兵衛が自分の居城である姫路城を秀吉に提供しているのである。史料としては残っていないが、6月23日からの手紙のやりとりの中で、そのような相談が進められていたものと思われる。

官兵衛時代の姫路城がどのような城だったかはわかっていない。場所は近世姫路城、すなわち、現在、世界文化遺産となっている姫路城の位置と同じであるが、もちろん、現在みられるような天守群、石垣は関ケ原合戦後に入った池田輝政によるものなので、小さな戦国の城で、江戸時代の地誌『播磨鑑』では、二つの曲輪からなっていたとする。

姫路城、秀吉時代、石垣
秀吉時代の姫路城の石垣

秀吉を快く思っていなかった荒木村重

官兵衛から姫路城を譲り受けた秀吉は、「中国方面軍司令官」として、対毛利戦略の拠点となる城につくり変えている。竹中半兵衛の子重門が著した『豊鑑』に、「石をたゝみて山をつゝみ、地をうがちて水をたゝへ、やぐらどもあまた造りつゞけ」とある。石垣を積み、水堀で囲み、櫓も建てられたことがわかる。近世天守の解体修理のとき、秀吉時代の天守とおぼしき石垣も出土し、三重四階の天守があったことが明らかとなっている。

そうした動きを快く思っていなかったのが荒木村重である。村重は信長から摂津一職支配を許可され、有岡城を居城として、隣国播磨の諸将を織田方になびかせるべく勧降工作を進めていた。その過程で官兵衛とも親しかったのである。

村重は、「当然、自分が播磨経略の大将に命じられる」と思っていたところ、にわかに秀吉が派遣され、しかも、官兵衛の居城だった姫路城に対毛利戦略のための立派な城づくりをはじめたことをおもしろく思わなかった。村重謀反の背景に毛利輝元や石山本願寺との連携といったことが取り沙汰されているが、秀吉への対抗意識というものもその一つになっていたのではないかと考えている。

有岡城
有岡城

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
          『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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