戦国武将と城 豊臣秀吉と城 第1回 | 羽柴秀吉が小谷城から長浜城に移ったのはなぜか

日本城郭協会理事長  小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が小谷城から長浜城に移った理由とは? 


浅井長政攻めの論功行賞


今回から歴史をさかのぼらせる形で羽柴秀吉、すなわち豊臣秀吉と城についてみていくことにしたい。

織田信長が妹お市の方の夫である北近江の戦国大名浅井長政と敵対することになったのは、元亀元年(1570)4月の信長による越前朝倉攻めのときからである。このとき、越前に攻め込んだ織田軍の退路を断つ形で長政が反旗を翻したため、信長は這這の体で京都に逃げもどり、態勢を整え、その報復の戦いをしかけてきた。同年4月28日の姉川の戦いである。

姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利で終わり、朝倉軍は越前に撤退し、長政は小谷城に籠城した。このあと、小谷城攻めの大役を仰せつかったのが秀吉で、秀吉はそれまで浅井方の支城だった横山城を奪い、そこを本拠地にして小谷城を攻め、また、浅井氏の家臣の寝返り工作を進めている。

結局、天正元年(1573)9月1日、長政が自害し、小谷城は落城した。信長はその戦功を賞し、秀吉に小谷城と、浅井領北近江12万石を与えている。「一国一城の主」というわけで、明智光秀の坂本城が「一国一城の主」第1号に対し、第2号というわけだ。

焼けていなかった小谷城に入る秀吉


信長は城攻めのとき、火攻めといって、城の建造物などに火を放って焼いていったことで知られている。ところが、この小谷城攻めに関するどの文献にも、秀吉をはじめとする信長家臣が小谷城に火をかけたという記述はなく、山麓部分は別として、山上の諸曲輪の発掘調査からも焼けた痕跡はなく、信長軍が火をかけなかったことはたしかである。したがって、秀吉は小谷城を与えられるとすぐ小谷城を本拠の城としている。

ところが小谷城は標高495メートルの大嶽(おおずく)を最高所として、主要部分も麓からの高さ、すなわち比高が200メートルを超す典型的な山城であり、すでにその段階で周囲に敵がいないため、秀吉としても山城に固執する必要はなかった。従来は、そうした生活上の不便さを解消するために琵琶湖畔に新しい城を築いたとされてきた。

小谷城、本丸虎口
小谷城址の本丸虎口

長浜城築城の真のねらい


ところが、その後の秀吉の築城歴を追いかけると、山崎の戦いのあとに築いた山崎城は山城だし、秀吉本人ではないが、甥の秀次が築いた八幡山城も山城だし、秀吉本人は特に山城を敬遠していたようには思えないのである。もしかしたら、小谷城から長浜城への移城は主君信長の意向だったのかもしれない。

実は、秀吉が築いた長浜城の場所は、守護大名京極氏がこの地を支配していた時代、今浜城という城があったところで、京極氏の重臣筆頭上坂(こうさか)氏の居城があり、今浜の名前の通り、琵琶湖畔の湊があったのである。信長は、光秀の坂本と、秀吉の今浜、すなわち長浜で琵琶湖を押さえるという構想をもっていたと思われる。

おそらく、その構想のもと、信長はこのあと安土に城を築き、坂本と長浜と結ぶトライアングルを築きあげたのであろう。

長浜城
長浜城址

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
          『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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