2018/07/18
昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第6回 【墨俣城】ふるさと創生事業で「一夜城」を建築
昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。今回は岐阜県にある墨俣城を取り上げる。「ふるさと創生事業」で「一夜城」を建築。
紅葉と水面に映える墨俣城。城の入り口に架かる橋は「太閤出世橋」という
墨俣一夜城伝説の城には純金の鯱がのる
日本で一番出世した人物といえば、下層民から天下人となった豊臣秀吉だろう。まだ秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた時代、主君である織田信長の草履を自らの懐で暖めた逸話は、テレビドラマや小説などでも多く取り上げられており知っている人も多いと思う。今回紹介する墨俣城(岐阜県)は、その秀吉出世譚を彩る「墨俣一夜城」伝説が残る地にある。
秀吉が出世の足がかりとした墨俣一夜城伝説は、織田信長による美濃攻め際、あらかじめ切り出しておいた木材を木曽川に流し、墨俣の地で組み立て一夜で城にしたというもの。まさに、資材の下ごしらえをしておき、現地で一気に組み立てるプレハブ工法である。
ただ、永禄4年(1561)の戦いで織田信長が墨俣城(当時は砦のようなもの)を占領し、改修したとする史料もあり、秀吉による墨俣一夜城伝説は創作であるとの声も強い。その後、墨俣城は天正14年(1586)に起きた木曽川の氾濫で流され、再建されることはなかった。また、木曽川の流れが現在のように変わったこともあり、城があった場所は正確には不明である。
4層6階高さ約23mの天守は今からおよそ30年前、竹下内閣の「ふるさと創世事業」による1億円を元手に「墨俣歴史資料館」として建てられた。城のパンフレットには、「地域住民の長年の夢であった一般的な城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)を建設しました」とある。
城が完成したのは1991年のこと。岐阜県内にはすでに岐阜城、大垣城、郡上八幡城などの天守が築かれており、「墨俣にも城を」という思いが強かったのだと推測される。
白壁が美しい墨俣城。天守の屋根には光り輝く金鯱がのる
総建築費用は約6億6千万円、墨俣のすぐ近く(現在は合併により同じ市内)にある大垣城をモデルに建設されたという。派手好きの秀吉の城らしく、天守の屋根には約120cmの24金のシャチホコ(合計27㎏)がのせられている。
24金のシャチホコとは別に、純金を貼り付けた雌雄一対のミニチュアのシャチホコも製作された。しかし、2002年3月にまるごと盗難されるという憂き目に。再び制作された金のミニシャチホコ(800万円相当)だったが、2006年10月、またも盗難にあい腹びれなどがもぎとられている。
さらに2017年4月にも盗難未遂事件が発生。金のミニシャチホコは無事だったものの、ミニシャチホコが入った強化ガラスケースは複数のヒビが入ってしまった。4度目の災難がないことを祈るばかりだ。
秀吉ゆかりの地らしく出世伝説にあやかる願掛け
現在、墨俣城を含む一帯は墨俣一夜城址公園となっており、城の周りを長良川の支流である犀川が流れている。この犀川の堤防沿いには約1,000本のソメイヨシノが桜並木をつくっており、岐阜県内有数の桜の名所としてお花見シーズンには多くの人で賑わう。
晴天の日には遠く岐阜城を望める天守最上階からも、犀川の桜並木を楽しむことができる。ライトアップが行われる夜には、ぼんぼりに浮かぶ墨俣城が幻想的である。
春には桜が咲き誇る墨俣城。お花見シーズンは夜まで人が絶えない
また、公園内にある白鬚神社には、豊臣秀吉を祀る豊国神社が鎮座している。墨俣歴史資料館が建てられた際、大阪の豊国神社から分祀されたものだ。秀吉を祀る神社らしく、境内には「出世之神」の幟が立ち並んでいる。
秀吉といえばトレードマークの千成瓢箪を思い浮かべる人もいると思うが、墨俣城でも秀吉の出世にあやかり、「願掛け出世ひょうたん」という祈願が行われている。願いを託した瓢箪は、毎年10月に行われる「すのまた秀吉出世まつり」の薪能の際、かがり火にくべられて天に昇っていく。
願いが成就するかどうか、豊臣秀吉出世の足かがりとなった墨俣城を訪ね、試してみてはいかがだろうか。
墨俣城(すのまた・じょう/岐阜県大垣市)
永禄4年(1561)または永禄9年(1566)に豊臣秀吉によって短期間で建てられたという。『信長公記』には秀吉が築城する前に砦があったことが書かれており、墨俣一夜城の逸話には疑問が呈されている。墨俣城は天正14年(1586)の木曽川の氾濫で流され、その後再建されることはなかった。
執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。