城に眠る伝説と謎 城に眠る伝説と謎 第3夜 |【結城城】権力者たちが血眼で探した埋蔵金はどこに!?

全国のお城に伝わる伝説や奇譚を取り上げ、歴史をひもとく「城に眠る伝説と謎」。第3回目は奥州藤原氏の黄金が眠るといわれる結城城。徳川将軍も探したという結城氏の埋蔵金は果たして実在したのでしょうか…?

金光寺山門、結城城
金光寺山門(結城市提供)。門に刻まれた和歌の謎を解いたものは誰もいない…

山門に刻まれた3首の和歌が手がかり?

茨城県結城市にある金光寺。ここは13世紀ごろ、結城城主で下総結城氏の初代・結城朝光が建立した真言宗の寺院である。その山門には次の3首の和歌が刻まれているのだが、これがちょっと“いわくつき”なのだ。

きの苧 かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね
こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも
あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし

なんとこの和歌には、結城氏17代・晴朝が結城城(茨城県)のどこかに埋めたとされる埋蔵金のありかにつながるヒントが隠されているというのだ。いわゆる「結城埋蔵金」である。この埋蔵金伝説、今でもときどきテレビ番組などで発掘活動がおこなわれることがあるので、ご存じの人も多いだろう。

奥州藤原氏の黄金が結城城のどこかに!?

結城城は寿永2(1183)年、初代・朝光によって築かれ、現在は公園になっており、空堀や土塁などの一部が残されている。

朝光は、源頼朝の命で奥州藤原氏の討伐に参戦、その恩賞として藤原氏が保有していた黄金を大量に与えられたのだとか。それも砂金で数百樽とも竿金で数万本ともいわれている。平泉に象徴されるように、奥州藤原氏といえば黄金のイメージが強いが、本当だとすれば、朝光もウハウハだったに違いない。

結城晴朝肖像、埋蔵金
結城晴朝肖像(東京史料編纂所所蔵模写)。彼は一体どこに埋蔵金を隠したのだろうか

さて、時は下って17代・晴朝の時代。子のない晴朝は、徳川家康の次男・秀康を養子に迎えたが、跡継ぎにもかかわらず、秀康は松平姓にこだわったらしい。結局、秀康は越前に転封となり越前松平家の初代当主となる。先祖代々の地も家名も失う晴朝は当然おもしろくない。結城城は廃城となってしまうが、この地での結城家再興をもくろんだ晴朝は、初代から受け継いだ財宝をここに隠したとされるのだ。これが「結城埋蔵金」伝説の始まりである。

家康も吉宗も阿部正弘も探したが発見できず

この埋蔵金、かなりの信ぴょう性をもって語られていたようで、江戸時代以降、数度にわたって大規模な探索がおこなわれたようだ。徳川家康は結城城だけでなく、晴朝の隠居所の会之田城(栃木県)や越前の福井城(福井県)まで探し回ったそうで、その執念ぶりがうかがえる。しかも家康、実はこの埋蔵金の存在を知っていて、それで結城家を転封という形で体よく越前に追い払ったのではないかという説もあるようだ。息子の秀康を養子に送り込んだのも埋蔵金が狙いだったのかと思ってしまう。

8代将軍・徳川吉宗も大岡越前守に発掘を命じたらしいが発掘作業中に土砂崩れが起き、多くの犠牲者を出して中止したのだとか。それが晴朝の祟りだったら笑えない話である。

その後も、老中・阿部正弘や大正期には貴族院議員で旧結城藩主・水野家にゆかりのある水野直(なおし)も探したらしい。しかし、いまだに発見できていないところを見ると、みんな“骨折り損のくたびれ儲け”だったと言えそうだ。ちなみに幕末の安政期には「下総国結城在吉田村百姓五郎右衛門宅地ノ井戸普請ニ付あまたの棒金ヲ掘出し」と、結城城の城下町で結城の埋蔵金とおぼしき金塊が発見されたことを伝える瓦版まで発行されている。内容の真偽は定かでないが、権力者だけでなく庶民までもが埋蔵金伝説にロマンを感じていたのだろう。しかしこれだけ探しても見つからない埋蔵金。一体どこにあるのか。

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結城城は現在城跡歴史公園となっている。写真は園内にかかる三日月橋


執筆/松本壮平
ライター・編集者。1972年、大分県中津市生まれ。慶應義塾大学文学部史学科日本史学専攻卒業。歴史、グルメほか多ジャンルで執筆。『食楽web』(徳間書店)にてからあげ食べ歩きコラム「から活日記」連載中。

写真提供/クレジットがある写真以外はかみゆ歴史編集部

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