昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第3回 【唐津城】青い海と空に囲まれた幻の天守

昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。今回は佐賀県にある唐津城を取り上げる。じつは唐津城には江戸時代、天守が建っていなかった・・・!?



築城には名護屋城の解体資材を利用

アドリア海もかくやと思わせる青い海と空に囲まれた白亜の天守。このすばらしいコントラストは、湾に半島状に突きだした陸繋島に建つ唐津城ゆえに望める絶景である。

天守部分を頭部に見立てると、左右に広がる東西の浜がまるで鶴の羽のように見えるため別名舞鶴城とも呼ばれる。

まるで海に浮かぶ要塞のように見える城の東側には、長さ約4.5km、幅約500mにわたり約100万本のクロマツが植生する景勝地が広がる。このクロマツは、初代唐津藩主の寺沢広高が慶長年間に潮風や飛砂から農地を守るために植林したもので、弧状の松原を空にかかる虹に例え、虹の松原と呼ばれている。

虹の松原には七不思議があり、謎の答えを探しながら散策することができる。本題から外れるのでここでは詳細を割愛するが、気になった方は是非調べてみて欲しい。結構おもしろい。

唐津城
海から見た唐津城

さて、城の話を続けよう。唐津城は寺沢広高が慶長7年(1602)から7年の歳月を費やして完成させた。築城にあたっては、朝鮮の役後に、役割を終えて廃城となっていた名護屋城の解体資材を用いたという。

名護屋城の五重天守を移す予定もあったが、幕府に配慮して取りやめになったと伝わる。実際に江戸時代の城絵図には天守が描かれていない。ん? 天守が建っていない……!? 

唐津城、模擬天守、天守台
現存する天守台の上に建てられた唐津城模擬天守

じつは、寺沢広高の跡を継いで2代藩主となった堅高が描かせた絵図には天守台のみが描かれ、天守は描かれていない。絵図は正保2、3年(1645〜46)頃に描かれたので、江戸時代には現在のような天守は建っていなかったと考えられるのだ。

文化観光施設としての天守建造

明治維新を迎え、廃藩置県によって唐津城は廃城となる。その後、本丸は明治10年(1877)から、舞鶴公園として一般公開され、市民の憩いの場として活用される。

昭和41年(1966)、文化観光施設として天守台の上に鉄筋コンクリート、五重五階・地下一階の模擬天守が建てられた。天守の記録がないため「肥前名護屋城図屏風」の名護屋城天守をモデルにしたという。

とはいうものの、どことなく会津若松城天守に似ているのは気のせいであろうか。五重構造に白漆喰の壁、最上階の赤い高欄…。唐津城天守が建つ1年前に会津若松城天守が復元されている。互いに慶長期の天守という接点もあるが、建設時期から考えて何かしらの影響は受けているかも知れない。互いの天守を見比べてみるもの一興だろう。

文化観光施設としての唐津城天守内部は資料館として使われていたが、2017年7月にリニューアル。中世松浦党の時代から唐津藩の歴史を学べるフロアや唐津焼を解説するフロア、唐津市内の観光地や観光ルートを紹介するフロアなど6つに分かれている。中でも唐津城5階の展望フロアからの眺望は素晴らしく、唐津湾や虹の松原など360度のパノラマが楽しめる。

唐津城、唐津湾、虹の松原
 5階フロアから見た虹の松原

また、城は桜や藤の名所でもあり、3月には桜、4月末から5月上旬には藤の花が咲き誇り、天守と一緒に楽しめる。日中は港町の情緒的な風情と城がマッチし、夜にはライトアップされた天守が幻想的な雰囲気を醸し出す。夏に行われる九州花火大会では唐津城をバックに花火が上がる。まさに、港と町と城のテーマパークといえよう。


唐津城(からつ・じょう/佐賀県唐津市)
寺沢広高が慶長7年(1602)に築城を開始し、慶長13年(1608)に完成した平山城。城の北側が唐津湾に面していることから海城ともいわれる。江戸時代を通じて、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原氏と城主は移り変わり、明治の廃藩置県で廃城となる。

執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。

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