2018/06/29
超入門! お城セミナー 第3回 【歴史】天守っていつからあるの?
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法や、お城の用語など、ゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。今回のテーマは天守。華麗な天守は誰が造り、なぜ現在では数えるほどしか残っていないのかを解説します。
革命児・織田信長が造りはじめた天守
前回、天守が建てられた近世城郭は、実は圧倒的少数派だというお話をしました。つまり、「城=天守」ではないということ。でもでも、やっぱり城といえば、まずカッコイイ天守が思い浮かぶ人は多いはず! ということで、今回は城のシンボル「天守」のお話です。
よく「天守閣」と呼ばれますが、これは江戸時代後期から庶民の間で呼ばれたニックネームのようなもの。天守が楼閣建築の流れだからともいわれますが、歴史的には「天守」と呼ぶのが正解です。それでは、天守の誕生と普及、そして衰退について見ていきましょう。
信長が築いた安土城。天主は6層7階で八角形の望楼を持つ、壮麗なものであった(イラスト=香川元太郎)
時は天正7年(1579)、ところは現在の滋賀県・近江の国の琵琶湖のほとり。ここに織田信長が、天下統一の拠点とすべく安土城(近江八幡市)を築きました。石垣に囲まれたこの城の最高所には、その権力を誇示するような、巨大で絢爛豪華な高層建築がそびえ立っていました。そう、これが天守第1号だといわれています。「天守」という言葉も信長の命名で、はじめは「天主」と書かれていましたが、秀吉以降は「天守」に落ち着きました。
全国に建てられた天守はどこへ行ったのか
安土城以降、織田家の重臣たちは、天守を備えた石づくりの近世城郭を築くようになります。豊臣秀吉が天下を統一すると、各地の大名は権力のシンボルである天守に憧れて、これを自らの領地にこぞって築くようになり、天守は全国津々浦々に普及しました。江戸時代がはじまる頃には、全国に数百もの天守が建っていたそうですから、当時の日本の景観は今とはかなり違ったはずです。
慶長年間に築かれた犬山城(愛知県犬山市)の天守は現存する中で最も古い天守とされているが、近年は丸岡城(福井県坂井市)が最古ともいわれている
しかし、徳川幕府が発布した「一国一城令」により、領内に城は居城一つだけと制限され、新築は禁止。修理さえも許可制となり、この時期に数千もの城が消滅してしまいます。その後、明治時代の「廃城令」で100以上の城が破壊され、さらに昭和の太平洋戦争の空襲で7基の天守が焼失。ついに現在まで残る天守は12基のみとなってしまいました。鉄筋コンクリート造りなどで再建された天守もたくさんありますが、「現存天守」といわれる12の天守は、激動の歴史を乗り越えてなおそこに建ち続けている、とても貴重な存在なのです。
名古屋城(愛知県名古屋市)の天守は戦前国宝に指定されていたが、空襲によって焼失した。現在城内に立つ天守は戦後に復元されたものである
執筆者/かみゆ
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