戦国武将と城|小和田哲男 <徳川家康と城>第2回 浜松から駿府へ城を移したわけ

天正10年(1582)の武田氏滅亡により、それまでの遠江・三河に加え駿河を手にした家康は、その直後、本能寺の変で大混乱に陥った甲斐・信濃も手に入れ、5ヵ国を支配する大々名に成長した。しかし、その後もしばらくは浜松城を本拠としていたのである。2年後の天正12年には羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いをくりひろげ、よくいわれるように、局地戦では家康が勝ちながら、大局的には秀吉に屈服する形の講和が結ばれている。その証拠が、家康の二男於義丸を秀吉のもとに人質として出していることである。

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