家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第12回 大多喜城

江戸幕府の開祖・徳川家康が三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」。最終回となる第12回は、徳川四天王の本多忠勝が居城とした大多喜城(千葉県夷隅郡)です。忠勝が守りを固めるために施した工夫などに注目しながら、大多喜城の歴史と構造を見ていきましょう。

万喜城から大多喜城に移る

徳川四天王の一人本多忠勝は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いが初陣といわれ、「旗本先手役」の一人として、以後、家康のほとんどの戦いに出陣している。生涯50を超える戦いを経験しながら、身に傷を負ったことがなかったという。中でも、元亀3年(1572)12月に武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いの前哨戦、一言坂(ひとことざか)の戦いでは、名槍蜻蛉切(とんぼきり)を振って奮戦し、敵方から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」と謳われたくらいである。

天正18年(1590)の家康の関東転封のとき、忠勝は上総国10万石を与えられた。これは、井伊直政の12万石に次ぎ、同じく徳川四天王の榊原康政の10万石と同じなので、この時点での家康家臣団の序列では第2位であった。

このとき、忠勝は初め上総万喜(まんぎ)城(千葉県いすみ市万木)に入っているが、すぐ居城を大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町大多喜)に移している。それが大多喜城である。大多喜城の前身とされるのが小多喜根古屋(おだぎねごや)城で、大永元年(1521)に、武田氏の一族真里谷(まりやつ)武田信清が根古屋城の跡地に築いたものという。その後、城は里見義堯(よしたか)の家臣正木時茂が城主となっていたが、上総国が徳川領になったことで忠勝が入ることになったのである。

安房里見氏の北上に備えての築城

大多喜城土塁
大多喜城土塁

城は標高およそ73mの高台に築かれた平山城で、忠勝は、家康の意を受けて、安房里見氏の北上に備えるため、それまでの小田喜城のままでは危ないと考え、大幅な改修を施し、新しい大多喜城としている。

城の南を流れる夷隅(いすみ)川を天然の堀として防衛線とするとともに、夷隅川沿いに25の寺院を配置するという念の入れようであった。城は本丸・二の丸・三の丸と3つの曲輪からなり、それぞれ空堀および土塁によって区切られ、「大多喜城古図」(千葉県立中央博物館大多喜城分館所蔵)によると、随所に門が築かれ、守りを固めていた様子がうかがわれる。

本丸には三重の天守(御三階(ごさんがい)櫓)が築かれた。天守は天保13年(1842)に焼失してしまったが、現在、天守の絵図を参考に、昭和50年(1975)に模擬天守が復元され、千葉県立中央博物館大多喜城分館となっている。「大多喜城古図」によると、二の丸には御殿が建てられていたことがわかる。二の丸は、現在、千葉県立大多喜高等学校の敷地となっており、かつての堀の跡をそのまま利用してテニスコートになっているところも注目される。なお、三の丸はほとんど家臣団の武家屋敷となっていた。

大多喜城模擬天守
絵図を参考に復元された模擬天守

『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に記された大多喜城

忠勝はその後伊勢桑名城(三重県桑名市)へ移って行き、大多喜城は忠勝の次男忠朝が受け継いだ。その忠朝のときの慶長14年(1609)9月、領内の岸和田沖合にドン・ロドリゴの乗るスペイン帆船サン・フランシスコ号が暴風雨にあって難破した。忠朝はロドリゴら一行を保護している。そのロドリゴが『日本見聞録』を遺しており、そこに忠勝が築いた大多喜城の様子が書き記されているのである。

大多喜城全景
大多喜城全景

たとえば跳橋(はねばし)のあったことについて、「城は高台にあり、第一の門の外に深い堀があって吊り橋が架けられ、これを吊り上げると通行できなくなる」と記され、また、城内に水田があったことについては、「野菜畑や水稲の実る田圃があって、半年は落城することのない用意周到さに感服した」など、籠城に対する備えがあったことについても記している。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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