真田一族の城|平山優 第1回 真田家の本拠松尾城をめぐる謎(上)

大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者・平山優先生による「真田一族の城」をテーマとした講座。謎に包まれた真田氏の系譜と、城との関係に焦点を当てます。

戦国時代に武田信玄・勝頼に登用され、武田氏滅亡後は動乱をくぐり抜け、遂に大名にまで成長した真田氏。その真田一族と城郭との関係に着目した連載を始めることとなった。第一回目として、謎に包まれた真田氏の系譜と、城との関係に焦点を当ててみたい。

真田氏は、信濃国小県郡真田を発祥とする武家であり、滋野一族の流れを汲むとされる。地元に伝わる江戸時代の記録によると、真田氏はもともと真田・横沢・大日向・横尾・上原・中原・本原村(いずれも上田市真田町)七カ村を領有していた小さな勢力だったといわれるが、これは事実を伝えている可能性が高い。

この本領支配の要として、真田氏が拠点にしていたとされる城郭が松尾城(松尾古城)である。松尾城は、神川と角間川の合流点にそびえる増尾山にあり、主郭は標高1037mのところにある。尾根筋にいくつもの小曲輪が設けられており、石塁が馬場、主郭へ続くルートを遮断している。そして約40m×12mを測る規模の大きい「馬場」と伝わる曲輪に至り、さらに登るといくつかの腰曲輪を経て、約11m×14m四方の主郭に入る。なお、主郭はさらに、最も高い場所にある「遠見番所」へと続くが、主郭の背後は巨大な堀切によって断ち切られている。所々、石積みが見られるが、これは増尾山が岩山であったことから、利用しやすい石塁になったと考えるべきであろう。主郭と「遠見番所」はともに眺望がよく、上田市域をほぼ一望できる。さらに、麓には「日向畑遺跡」、安智羅明神を祭る社殿などがある。ここが戦国期真田氏の本拠地とされている。

松尾城、縄張図、真田町、真田氏三代
松尾古城縄張図 原図上田市教育委員会『真田町の遺跡』、尾見智志氏加筆(出典:『真田氏三代と信濃・大坂の合戦』中澤克昭著 吉川弘文館)

ところで、戦国期真田氏は三度、本拠となる屋敷を移転させているといわれる。まず、松尾城麓の日向の屋敷跡、次に山家の屋敷跡、そして本原(中世の原之郷、近世は上・中・下原村)の真田氏屋敷跡の三ヶ所である。今回紹介するのは、松尾城と密接な関係にあると推定される日向の屋敷跡だ。実をいうと、この屋敷跡は松尾城麓で、「日向畑遺跡」と安智羅明神を祭る社殿に隣接する場所にあたる。地元では古くから、真田氏の屋敷があったと伝わる。ちなみに、安智羅明神のご神体として、木像が祀られており、これは真田幸綱もしくは真田信繁(幸村)の姿を模したものとして著名なものだ。

このことは、松代真田藩が編纂した『真田家御事蹟稿』に収録されている「松尾古城之図」にも記述があり、「日向畑遺跡」付近は「常福院」があった場所と記され、この付近一帯を「此辺スベテ真田家御屋敷跡云」と明記している。すでに近世から、真田氏屋敷の伝承があったことが確認できる。そして、昭和46年(1971)、これらの伝承を証明するような発見があった。松尾城麓の真田氏屋敷跡の伝承を持つ平場の一角から、大量の五輪塔と宝篋印塔が発掘調査の結果、見いだされたのである。これが「日向畑遺跡」である。

発掘調査の結果、室町から戦国期にかけての五輪塔と宝篋印塔多数と、火葬骨が埋葬されていた墳墓跡23カ所、伴出遺物は古銭、石臼片、石皿、鉄鎌、土器類などが確認された。そして注目されるのは、この墓石群は人為的に破壊され、土がかけられ秘匿された可能性が高いと指摘されたことだ。このことは、この墓石群を祭る主体の武家が、何らかの事情でこれを自らの手で破壊、秘匿したことを物語る。しかしいっぽうで調査結果は、この墓石群を作り、死者を祀った武家が、再びこれを再興しなかったことをも示していた。この事実は、松尾城およびと日向の屋敷と、戦国期真田氏との関係にいくつかの疑問を投げかけることとなった。次回はその点を検討してみたい。

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alt平山​優(ひらやまゆう)
歴史学者
1964年生。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。


著書 『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(吉川弘文館)
   『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)
   『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)
   『山本勘助』(講談社)
   『真田三代』(PHP研究所)ほか多数

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