戦国10大合戦と城|小和田哲男 第7回 長篠・設楽原の戦い

戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。第7回のテーマは、織田・徳川連合軍と武田軍が激突した「長篠・設楽原の戦い」です。長篠城をめぐる攻防から戦いが拡大していった急展開の模様を、両軍が拠点とした城の構造や戦略に注目しながら見ていきましょう。

戦いの発端となった長篠城

ふつう、長篠(ながしの)の戦いと言い慣わしているが、織田・徳川連合軍と武田軍が実際に戦ったのは設楽原(したらがはら)なので、現在では、長篠・設楽原の戦いという言い方が一般的となっている。

しかし、戦いの発端となったのは長篠城(愛知県新城市)なので、長篠城からみていきたい。長篠城は永正5年(1508)、今川氏親の家臣菅沼元成によって築かれたといわれている。この長篠城の菅沼氏は、田峯(だみね)城(愛知県北設楽郡設楽町田峯)の菅沼氏、作手(つくで)亀山城(新城市作手)の奥平氏とともに「山家(やまが)三方衆」とよばれ、徳川家康が三河で自立を果たしてからは家康に従っていた。

ところが、元亀2年(1571)の武田信玄による三河侵攻のとき、徳川方から武田方に寝返り、そのとき、武田氏によって長篠城も武田流に築き直されたという。それが、現状ではみられないが、絵図によって確認される三日月堀、すなわち丸馬出(うまだし)である。そののち、天正元年(1573)、長篠城は再び徳川方の手に落ち、家康は城主として奥平信昌を送りこんだ。

信玄死後、家督を継いだ勝頼が徳川方となった長篠城の奪還に動きはじめた。同3年(1575)5月11日、勝頼の軍勢が長篠城の包囲をはじめている。このときの武田軍の数については1万5000といわれているが、高柳光壽氏の『長篠之戦』では6000ほどとしている。

城を守っていた奥平信昌から浜松城(静岡県浜松市)の家康に後詰の要請があり、家康も、自分だけが後詰をしても勝ち目はないと判断し、すぐ、同盟者の織田信長に援軍要請をしている。

前年、同じように援軍要請を受けながら、高天神城(静岡県掛川市)を救うことができなかった信長は、汚名返上と、家康との同盟関係維持のねらいもあり、すぐ出兵を決め、5月15日には、早くも、家康が待つ岡崎城(愛知県岡崎市)に入っている。このときの織田・徳川連合軍も、織田軍3万、徳川軍8000、合わせて3万8000といわれているが、実際にはその半分くらいと考えられている。

武田勝頼の医王寺城と長篠城包囲の砦

医王寺城
医王寺城

この長篠城攻めにあたって、勝頼が陣城として築いたのが医王寺城(愛知県新城市)である。長篠城の北1キロメートルほどのところに位置し、比高30メートルほどの小高い丘の上に築かれている。曲輪が3つ東西に並ぶ連郭式の縄張で、土塁・空堀・虎口も残っていて、勝頼の本陣として、本格的に築かれたことがうかがわれる。麓の医王寺の場所も何らかの施設があったと考えられるが、遺構は確認されていない。

鳶ヶ巣山砦
鳶ヶ巣山砦

長篠城は豊川と宇連川の合流点に築かれた天嶮の要害で、その宇連川の対岸に勝頼は城攻めのための付城を築いている。鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦・中山砦・姥ヶ懐(うばがふところ)砦・君ヶ伏床(きみがふしど)砦などである。勝頼は、自らの本陣である医王寺城と、これら付城とで長篠城を封じ込める作戦であった。前年の高天神城攻めのときと同じように、信長・家康の後詰がなければ長篠城も落とせると考えていた。ところが、今回は、そうはいかなかった。予想外の早さで、信長・家康の後詰が迫ってきたのである。

鳶ヶ巣山砦、長篠城
鳶ヶ巣山砦から見た長篠城

設楽原の織田・徳川軍の陣所

『信長公記』によると、信長は5月18日、極楽寺山に本陣を置いている。このあと、戦場となる設楽原の西2キロメートルほどのところである。麓に極楽寺という寺があったのでその名があるが、丘陵の突端で、山とよべるほどの高さはない。同じく『信長公記』によると、家康本陣は高松山に置かれたという。ところが、その高松山という地名が長篠・設楽原古戦場周辺にはみあたらないのである。ただ、『松平記』に「家康本陣ハ八釼(やつるぎ)高松山」とあり、いま、八剱神社のある弾正山(断上山)の場所と考えられている。そこには松の大樹の伝承が残っていて、『信長公記』の著者太田牛一は、「高い松のある山」ということで高松山と表記したのではないかと考えられる(小和田哲男監修『徹底検証 長篠・設楽原の戦い』)。

弾正山、家康本陣
弾正山の家康本陣

信長軍は設楽原に到着するとともに、連吾川に沿って馬防柵を築きはじめている。これは信長の作戦だったらしく、信長は岡崎到着前に、馬防柵用の材木を用意させていたことが知られている。岡崎城で家康と相談する前に、信長の頭の中には、どのように勝頼を討つかの大まかな作戦はできていたようである。

馬防柵
織田信長が築いた馬防柵

どうしても、長篠・設楽原の戦いというと、この馬防柵と、鉄砲三段撃ちだけが取り沙汰される傾向にあるが、連吾川沿いの馬防柵の背後をみると、さらにすごい信長の戦略がみえてくる。山の斜面を削って切岸状にしているのである。馬防柵の背後全体を陣城として位置づけていたものと思われる。

そして、いよいよ決戦の日5月21日を迎えるわけであるが、戦いは前夜5月20日からはじまっていた。信長の密命を受けた家康の重臣酒井忠次らが4000ほどの兵を率いて鳶ヶ巣山の背後にまわりこんで、空が白むのと同時に攻めかかり砦を落としているのである。鳶ヶ巣山砦など武田方の砦を守っていた兵が押し出される形となり、これで長篠城包囲網が崩されることになった。

その結果、このころ清井田(きよいだ)というところまで前進していた勝頼本隊は前方の設楽原の信長・家康と対峙しなければならなくなったのである。ただ、従来の長篠・設楽原の戦いに関しての通説は、いくつかの点で見直しが進んでいるので、最後に、そのことにふれておきたい。

一つは、信長の鉄砲3000挺というのが実際は1000挺だったのではないかということで、もう一つは、武田騎馬隊といわれていることに対しての異論である。武田軍も、他の戦国大名と同じ程度の騎馬の比率で、騎馬軍だけで突っこんでいったとする従来の描き方に対して、もう少し検証が必要ではないかといわれている。

▼【連載講座】戦国10大合戦と城 そのほかの記事

alt
執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
   ▶YouTube「戦国・小和田チャンネル」も配信中