昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第2回 | 【岩国城】平和な時代ならではの再建

昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。今回は、景観を重視して天守の場所を移動した岩国城の物語。

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錦帯橋越しに岩国城を望む

江戸時代から続く再建の歴史

岩国城は、日本三大名橋の一つ、錦帯橋越しに眺めることができる風光明媚な城である。全国的にも珍しい南蛮造(唐造)の天守と錦帯橋の組み合わせは、思わずため息をもらすほどうつくしい。

そんな城の起源は、「三矢の教え」で有名な毛利元就の孫にあたる吉川広家までさかのぼる。慶長5(1600)年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で西軍について敗れた吉川広家は、所領を12万石から3万石に減らされ、岩国の地に封じられる。天下の趨勢は戦いに勝利した徳川家康に傾いたとはいえ、まだまだ予断を許さない状況が続いていた。そのため、主要街道である山陽道を見下ろせ、川幅約200mの錦川を天然の外堀に見立てた標高216mの横山山上に城を建造したのである。

しかし、5年の歳月をかけて築かれた城は、元和元年(1615)の一国一城令により、完成からわずか7年で取り壊しが決定される。広家は「周防国内には岩国城一城しかない」と訴えて城の存続を図るが、結局、徳川家を慮った毛利本家の意向に従い、麓の居館(現在の吉香神社付近)を藩庁とせざるをえなかった。御土居と呼ばれるこの陣屋は、明治維新まで続き、天守が再建されることはなかった。

一方、現在の岩国城を象徴する景色の一部となった錦帯橋は、3代藩主吉川広嘉によって延宝元年(1673)に築かれたものだ。それまでも錦川に橋はかかっていたが、川の流れが速くたびたび流出していた。なんとか流されない橋を、という強い気持ちで研究が重ねられ、『西湖志』に描かれた五つの小島にかかる小さなアーチ橋の絵にヒントに、5連アーチの橋が完成した。翌年の洪水で流されるものの、改良を加えて再建された錦帯橋は、昭和25年(1950年)の洪水で流失するまでの276年間、架替えを繰り返しながら存続し続けた。昭和の流失後、鉄筋コンクリートでの再建案も取りざたされるが、市民の強い要望により、昭和28年(1953)に木造の錦帯橋として再建されている。 

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南蛮造(唐造)の岩国城天守

景観を重視して天守の場所を移動

この情熱は岩国城の天守再建へとつながっていく。戦争による荒廃から復興の兆しが見え始めた昭和30年代、日本各地では観光に力を入るため天守の再建が盛んになっていた。岩国でもその動きが活発となり、岩国城再建に向けて市民から多額の寄付金が寄せられる。そして、昭和36年(1961)3月、「天守構造図」という絵図を参考とした復元工事がはじまり、翌年に4層6階の天守が鉄筋コンクリートで再建された。4階の張り出し部が絵図では板張りの黒い姿であったものが再建では白漆喰塗籠となっているものの、天守最上階からの見た目はすばらしく、城下町や錦帯橋、瀬戸内海の島々や四国までが一望できる。

実は天守復元にあたり、本来の天守台から30mほど南東に天守の位置が移動されている。本来の天守台は、発掘調査時に石垣の下部4分の1が見つかり、当時の石積み技術のままに修復され、見学することができる。

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復元された天守台

なぜ、天守を移動させたのか? それは、戦乱のなくなった時代には見張りのための城を築く必要はなく、錦帯橋からの眺めを重視し、人びとの目を楽しませる景色を選択した結果だといえる。この決定が、現代を生きる私たちに美しい岩国城を楽しませてくれているのだ。


城プロフィール
岩国城(山口県岩国市)
吉川広家が慶長6年(1601)に築城を開始し、慶長13年(1608)に完成した山城。山頂部に天守があったが、元和元年(1615)の一国一城令により取り壊された。寛永15年(1638)には幕府から石垣の取り壊しも命じられ、天守台や山上部の石垣が取り壊された。麓の居館は政庁として明治維新まで使われた。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部(丹羽篤志)
書籍や雑誌、ウェブ媒体の編集・執筆・制作を行う歴史コンテンツメーカー。日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなどを中心に、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける。城関連の最近の編集制作物に、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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