2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しむ! 本当はどう亡くなった?大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のあの人の死にざま

「あの人もこの人も次々と亡くなっていく…」と毎週日曜日に衝撃がはしる大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。衝撃とともに「でも本当にこうだったの?」と疑問を持つ方も多いのではないでしょうか? そこで、鎌倉時代が好きすぎて勉強のため会社員をやめたというという黒嵜資子さんに「ドラマと史実における登場人物の死にざま」について考察していただきました。最後にまだドラマ中で亡くなっていない人の史料での描かれ方に触れていますので、ご注意ください。

絶賛放映中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。物語も折り返し地点をむかえ話題となっています。SNS上では放送のたびに多くの感想が寄せられ、さまざまな人物の生きざまや死にざまについて、涙を誘われる人も多いようです。
今回は、ドラマの登場人物を数人ピックアップし、彼らの死にざまについて、ドラマでの描かれ方と、当時書かれた史料(『吾妻鏡』等)ではどう描かれているのかを、比べてみようと思います。

○上総広常〔寿永2年(1183)没〕

トップバッターは上総広常です。SNS上では「上総介ロス」が続出し、「#上総介を偲ぶ会」というハッシュタグが爆誕するなど、視聴者に愛された存在だったと思います。

<ドラマでの死にざま>

ドラマで上総広常が亡くなったのは、第15回「足固めの儀式」。
御家人たちが、源氏同士の争い(源頼朝と木曾義仲の争い)に手を貸したくないと、反頼朝に走ります。この状況に困った北条義時は、大江広元の依頼で広常に会い、反頼朝を掲げる御家人たちの誘いに乗ってほしいと頼みます。
広常は義時の意をうけ反頼朝の御家人たちに加わると、持ち前のリーダーシップを発揮し騒動を丸くおさめることに成功しました。

しかし、その状況こそまさに頼朝や広元の思うつぼでした。頼朝は自分に叛意を抱いた者をただで許すわけにはいかないと言い、みせしめとして広常の排除を決定しました。坂東で大勢力を誇る広常は、頼朝にとっては一番心強い味方である一方で、最大の脅威でもあったのです。

広常の討ち手には梶原景時が選ばれました。景時は大勢が集まっている侍所で、広常を双六に誘い、油断をしているところを衆人環視のもと斬り捨てました。

涙を流す義時をみて、すべてを悟りほほえみを浮かべながら死んでいく広常の姿、そして死後に見つかった、つたない字で書かれた「頼朝の武運を願う文」に涙した人も多かったのではないでしょうか。

<史料での描かれ方>

それでは、史料ではどのように書かれていたのかを見ていきたいと思います。
鎌倉時代の出来事を記したもので有名なものは『吾妻鏡』です。源頼朝が挙兵した治承4年(1180)から文永3年(1266)第6代将軍宗尊親王帰京までの幕府の様子を記した物です。1300年ごろ、幕府の中枢において編纂されたものだとされています。
残念ながら『吾妻鏡』は寿永2年(1183)の記事を欠いており、広常暗殺に関する直接的な記事はありません。しかしながら、承久元年(1219)に前天台座主である慈円によって書かれた歴史書の『愚管抄』には、建久元年(1190)に上洛した頼朝が、後白河院に語った内容を伝えた記事が書かれているので、そちらを見てみたいと思います。

『愚管抄』の該当記事をザックリ要約すると、「広常は朝廷に対する強烈な反抗意識を持っていた。これを危ぶんだ頼朝は、功臣でもあった広常の誅殺を決意し、景時に討たせた」「景時は、広常と双六をうっている最中にさりげなく双六盤を越えて、広常の首を掻き切った」ということが書いてあります。

つまり、広常が討たれたのは、彼が朝廷に対して反抗心をもっていたことが原因です。

また、景時にしても「さりげなく盤を越えて」とあることから、おそらくドラマのような大立ち回りはなかったものと推測できます。(実行主体の人数に関しては、この事件をあつかった『愚管抄』以外の史料によって諸説あります)

一方で、広常の文に関しては『吾妻鏡』にも記事があります。広常が討たれたあとで上総一ノ宮神社に納められた鎧とともに広常の書いた文が見つかりました。それには頼朝の武運を祈る内容が書かれてあり、これを読んだ頼朝は広常を討ったことを後悔したとあります。(寿永三年(1184)正月十七日条)

ただし、先に述べたように『吾妻鏡』は後世(1300年代)に編纂されたものであり、『愚管抄』の内容は、頼朝の朝廷に対するリップサービスであったという面もなきにしもあらずであろうことから、すべてを鵜呑みにすることはできません。この広常粛正の理由については、「諸説あり」だということは追記しておきます。

○源 頼朝〔建久10年(1199)1月没〕

源頼朝,鎌倉殿の13人

上総広常が視聴者に惜しまれる一方で、「全部大泉(頼朝)のせい」という言葉がトレンドにまでなってしまった源頼朝。作中の頼朝は、女好きで、御家人たちを見下し、時に非情さをもうかがわせる一方で、常に孤独をたたえた寂しい人間であるように描かれていました。
作中では視聴者から反感を買いがちだった頼朝ですが、『吾妻鏡』に書かれた頼朝は、よく笑い、よく泣き、よく怒る感情表現豊かな人物であり、御家人たちと宴で酒を酌み交わしており、いかにも御家人たちに好かれた棟梁であったように書かれています。 

<ドラマでの死にざま>

頼朝が亡くなったのは、第25回「天が望んだ男」。頼朝は夢にうなされ、みずからの死期を悟ると、死の影から逃げようとします。しかし、相模川の橋の追善供養に参列した帰り道、流人時代から側に仕えてきた安達盛長が手綱をひく馬に乗っている最中に、意識を失い落馬してしまいました。御所に運ばれた頼朝の意識はもどることはなく、しばらくは寝たきりだったものの、そのまま帰らぬ人となりました。

<史料での描かれ方>

この頼朝の最期の史実がどうであったかという点について、世間には実に様々な説が溢れています。なぜならば、『吾妻鏡』は建久7年(1196)から建久10年正月(1199年1月)までの記事を欠いているからです。

ただし『吾妻鏡』には頼朝の死について、亡くなってからかなり後の時代の記事(建暦二年(1212)二月二十八日条)にて、「頼朝は建久九年に行われた相模川橋の落成供養の帰り道に落馬した」と書かれています。

したがって、ドラマでの描き方はこれに沿ったものであったということができると思います。しかしながら、鎌倉殿である頼朝が従者を一人しか連れていないという状況は想像しにくいため、二人っきりの描写は、「登場時と退場時はおなじ」というこのドラマの演出によるものでしょう。

なお、『吾妻鏡』以外の史料では、『愚管抄』では「病死」、『猪熊関白記』(鎌倉時代の関白近衛家実の日記)では「飲水の病(糖尿病)」、『保暦間記』(南北朝時代に成立した歴史書であり作者不明)では「怨霊の祟り」としており、その死因についてはそれぞれバラバラです。

○阿野全成〔建仁3年(1203)没〕

頼朝の異母弟で、義経の同母兄。頼朝挙兵の折には、兄弟のなかで誰よりもはやく頼朝のもとに駆けつけました。北条政子や義時の妹である阿波局(ドラマの中では「実衣」と呼ばれている)の夫となり、したがって実朝の乳母夫になります。

<ドラマでの死にざま>

第30回「全成の確率」で亡くなったのが、阿野全成(あのぜんじょう)です。
僧である全成は、義父母である北条時政とりくの依頼により、源頼家を呪詛しました。しかし、それが露見してしまい捕らえられ、常陸国(茨城県)に流罪となってしまいます。その後、流罪先で比企能員に「頼家の怒りがおさまらず、実衣(全成の妻であり、政子や頼時の妹)の身が危ない」と吹きこまれ、ふたたび頼家を呪詛しようとしたところ、監視役の八田知家の家人に見つかってしまい、とうとう死罪となってしまいました。

SNSなどでは「癒し枠」とされ愛されていた全成ですが、『吾妻鏡』にはどのように書かれているのでしょうか。

<史料での描かれ方>

実は、『吾妻鏡』のなかで全成はほとんど書かれておりません。登場したころの治承4年(1180)に3件、その後はまったく触れられず、建仁3年(1203)五月十九日条でいきなり「謀反の疑い有り」として捕まったと書かれております。そして同月25日には常陸国へ流罪となり、6月23日には頼家の命令により八田知家が下野国(栃木県)で全成を処刑したと簡素に書かれています。

したがって、全成の人となりや生き様は『吾妻鏡』からはうかがうことはできません。ドラマのなかでも和田義盛に、「全成殿ってボンヤリとしか知らねぇんだよ」と言われております。しかし、これだけ史料が乏しいなかで多くの視聴者に愛される全成というキャラクターを描きあげた脚本家の手腕は見事というほかありません。

○比企能員(比企一族)〔建仁3年(1203)没〕

比企能員,鎌倉殿の13人

20年にわたる頼朝の流人時代を支えた比企尼。その甥であり、尼の猶子となって比企の惣領となったのが比企能員です。頼家の乳母夫(めのと)であり、娘(ドラマのなかでは「せつ」と呼ばれている)は頼家の子・一幡(いちまん)を産みました。

<ドラマでの死にざま>

比企能員および比企一族の死にざまが描かれたのは、第31回「諦めの悪い男」および第32回「災いの種」です。

頼朝のあとを継ぎ鎌倉殿となった頼家が重い病に倒れ危篤状態におちいると、能員は一幡を次の鎌倉殿の座に就かせようとします。一方で時政は、頼家の弟の千幡(のちの実朝)を後継者として擁立しようとしました。

ふたりの対立が鎌倉をふたつに割ってしまうと憂慮した北条義時は、比企氏を滅ぼすことを決意します。政子は「まだ幼い一幡の命を助けて欲しい」と懇願しますが、義時はこれも殺すように息子の泰時に命じます。

建仁3年(1203)の9月1日、比企と北条の後継者争いの交渉は決裂しました。翌2日、能員のもとに北条方から和議を申し入れたいとの文が届きます。能員は、肝の据わったところを見せようと丸腰(実際には着物の下に鎧を着けていた)で北条館に向かいましたが多勢に無勢、討ち取られてしまいました。

その後、北条の軍勢が比企の館を取り囲み一族を殺しました。一幡もこのときに殺されたと思いきや、実は泰時に匿われていました。しかし、これも義時の知るところとなり結局、殺されてしまいました。

比企一族の滅亡について『吾妻鏡』ではどのように書かれているのでしょうか。

<史料での描かれ方>

まず、比企氏と北条氏による後継者争いの交渉が決裂します。病床の頼家は実朝擁立をはかる時政の謀反を知り、能員に時政追討を命じました…というシーンを、政子が障子の陰で聞いていました…ということになっています。いわゆる、「尼御台は見た」というところでしょうか。

9月2日、時政は「仏事の相談がある」として能員を自宅に呼びだしました。頼家との密議が漏れていることを知らない能員は、武装していくように訴える一族を「武装したりすればかえって怪しまれる」と振りきり、平服のまま時政の館に向かいます。しかし、館では仁田忠常らが武装して待ち構えており、能員を竹藪へ引きずりこんで押さえつけ、躊躇なく殺してしまいました。能員が討ち取られたという報せをうけた比企一族は、館にこもって防戦をしますが、大軍に追いつめられ、やがて館に火を放ち自害しました、とあります。

しかし、『愚管抄』にはまったく違うことが書かれています。北条方は能員を呼びだして殺害し、さらに一幡を殺そうと比企の館に軍勢を差し向けました。一幡は母に抱かれ、かろうじて逃げだしましたが、その後11月に義時の郎党に見つかって捕らえられ殺されてしまいました、と書かれております。

大河ドラマのなかでも、泰時のもとで一幡は生きていましたが、それが義時の知るところとなり殺されてしまいました。『吾妻鏡』と『愚管抄』の両方を参考としながら描かれた、ハイブリッドなシーンになっていたと感じます。


以下、ドラマでは生きている人物の史料上死因解説あり!
さて、ここまで4人の死にざまをドラマと史料で比較してきましたが、以下はドラマではまだ書かれていない北条義時と三浦義村の盟友コンビの最期についてみていきたいと思います。梶原景時を皮切りに、比企一族、頼家そしてこれからさらに多くの屍をこえていくふたり。さぞかし壮絶な最期をむかえるであろうと思いきや――。

○北条義時〔貞應3年(1224)没〕

鎌倉殿の13人

『吾妻鏡』には、「このところ精神的に不調であったが、たいしたことはなかったものの、この日はすぐに危篤となった(貞應三年(1224)六月十二日条)」、さらに翌13日の記事には、「日ごろ脚氣の上、霍乱計會すと云々」と書かれています。日ごろ脚気を患っていたうえに、体調をくずしてしまったということです。「霍乱」という言葉は様々な病状をさすようですが、ここでは激しい下痢や嘔吐の症状をさしているのではないかと思います。享年62歳(数え年)。遺言ものこせずに急死したようで、彼の死後「伊賀氏事件」とよばれる御家騒動が勃発してしまいます。

○三浦義村〔延応元年(1239)没〕

義村は義時よりも5歳くらい年下であろうと推測されています。一般的には腹黒いイメージで語られることが多い義村ですが、結果的には生涯義時を裏切ることはありませんでした。義村の死について『吾妻鏡』は、延應元年(1239)十二月五日条に「頓死、大中風と云々」と記します。すなわち、「脳血管障害で急死」となるでしょうか。推定享年72歳(数え年)。


いかがでしたでしょうか。義時にせよ義村にせよ、年齢的には天寿を全うしたとはいえるように思います。屍の山をこさえておいて…という見かたもありますが、彼らは彼らなりに必死に生きた、その結果なのではないでしょうか。彼ら、そして滅んでいった多くの人々の存在があってこそ、鎌倉幕府は成立したのでしょう――そんなふうに諸行無常を噛み締めてしまうのは、わたしだけでしょうか。

執筆・イラスト/黒嵜資子(くろさきもとこ)
日本史が好きなひと。鎌倉時代の御家人がとても好き。とくに梶原一族が好きで追っかけていたら、寒川町観光協会発行の冊子『梶原のスゝメ―寒川ver.―』の絵・文を手がける事になる。その実態はただのオタク。https://mobile.twitter.com/geji2_n

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