昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第1回 【岐阜城】日本初の模擬天守

昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。初回は岐阜城。実は現在の天守は2代目というのはご存知ですか?


市民が建てた最初の城

岐阜城、天守、三層四階
鉄筋コンクリート三層四階の岐阜城天守

「木造トタン葺きの三層三階の天守」といえばどの城を思い浮かべるだろうか? いきなり質問となるが頭の体操だと思ってお付き合い頂きたい。

ヒント1:織田信長が天下布武を唱えた城。
ヒント2:古くは稲葉山城と呼ばれていた。
ヒント3:金華山の山頂にそびえ建ち、岐阜市街を見下ろしている。

もう、お分かりだと思う。そう、岐阜城である。岐阜城は三層四階の模擬天守じゃないか? という突っ込みが入るのは覚悟の上。実は現在の模擬天守は2代目で、明治から昭和はじめ頃まで、「木造トタン葺き」の三層三階の天守が建っていたのである。

岐阜城、模擬城
1910年再建の模擬城(岐阜市歴史博物館提供)

ことの起こりは幕末の動乱も一昔前の出来事となった明治20年(1887)頃。西洋文化の影響を受けた散歩や登山が流行しはじめており、金華山も人びとの憩いの場となっていく。明治21年(1888)には整備された公園がオープン。その後、公園は岐阜市に移管され岐阜公園と改称された。こうして徐々に金華山整備の気運は高まっていった。

そして明治42年(1909)、金華山西麓にある長良橋を建て替える際に出た廃材を利用し、岐阜市保勝会(現在でいう観光協会)と岐阜建築業組合による天守造りがはじまった。翌年5月に落成式を迎えた城は、白く塗った板張りの壁にトタン葺きの屋根を持つ、高さ15・15mの日本初の常設の模擬天守だった。建設費用は500円という。新しい岐阜市のシンボルとなった城には、来場者が多く訪れ、明治43年(1910)6月から翌年4月はじめまで43,900余人、一日平均約140 人が登山した。

焼失した初代天守と岐阜城再建運動

太平洋戦争まっただ中の昭和18年(1943)2月17日午前3時頃、岐阜城から出火、約2時間燃え続けて城は灰と化した。内部に陳列されていた江戸時代の武具など約100点も燃え尽き、被害総額は5,000円だったという(大卒銀行員の初任給が75円の時代)。出火の原因はたき火の不始末であった。すぐに再建計画が持ち上がったものの、戦局は悪化の一途をたどっており、また、岐阜市内の空襲などもあり計画は消えていった。

戦後復興も進み人びとの生活にも豊かさが戻ってきた昭和30年(1955)、観光の目玉として金華山にロープウェーが建設された。現在でも岐阜公園と金華山の山頂駅を約3分で結んでいる。当時、空中ケーブルカーは全国に2か所しかなく、金華山には全国から人が集まり連日大盛況となった。この成功が、一度立ち消えになった岐阜城再建計画を具体化させていく。

同年6月、第1回岐阜城再建期成同盟会が開かれ、岐阜城再建に向けて動き出す。市民に城再建の寄付を呼びかけて1,800万円を集め、10月には再建工事がスタート。信長時代の岐阜城天守は、加納城に移築されたとの伝承があるため、設計には加納城の御三階櫓の図面も参考にしたという。また、半永久的に城を残したいとの思いから、再建は木造ではなく鉄筋コンクリートと決まった。

こうしてはじまった再建工事だが、金華山の大部分を国有林が占めるため、木を伐採して資材搬入用の道路を造ることができず、南麓の資材置き場と山頂を空中ケーブルで結びピストン輸送するという難工事をともなった。厳しい冬の間も工事が続けられ、翌年6月30日、ついに鉄筋コンクリート三層四階の天守が完成する。今にも残る岐阜城天守である。

岐阜城、千畳敷
公園内の千畳敷で憩う大正時代の人びと(岐阜市歴史博物館提供)

NHK大河ドラマ『国盗り物語』が大ブームとなった昭和48年(1973)、岐阜城には連日観光客が訪れた。その年、岐阜城の入場者は43万人を数え、ロープウェーの乗員も74万人を超える。これを受け「天守閣以外の建物も」という市民の声が大きくなり、川島紡績の全額寄付で鉄筋コンクリート瓦葺き二階建ての隅櫓が完成。コンクリートの打ち込み作業のため、輸送能力の高いヘリコプターで生コンを山頂に運び上げる必要があり、一日に120回往復したという。彦根城を参考に建てられた隅櫓は岐阜城資料館となり、同時に二の丸土塀もコンクリートで復現された。

その後、平成の大改修を経て、金華山一帯は2011年に「岐阜城跡」として国史跡に指定された。2017年には、織田信長が岐阜城に入城して450年となり、さまざまイベントが行われるなど、再建された岐阜城は、今日も岐阜市民のシンボルとして金華山から町を見下ろしている。


城プロフィール
岐阜城(岐阜県岐阜市)
織田信長が永禄10年(1567)に美濃の稲葉山城を攻略。井の口という地名を岐阜に、稲葉山城を岐阜城に改めたという。そして、岐阜城を本拠とした信長が、城の大改修を行って天守を築いた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、信長の孫である秀信が西軍に属したため、東軍に攻められ落城した。天守や櫓などは加納城に移されたと伝わる。


執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。

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