2018/10/04
明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 西南戦争編 第1回【熊本城】2世紀半の時を超えて実力を示した究極の堅城
幕末維新の事件の舞台となった城を紹介する「維新の舞台と城」。今回から「西南戦争編」として、明治維新から10年後、政争に敗れて下野していた西郷隆盛が担ぎ出された士族最大の反乱・西南戦争にまつわるお城を2回にわけて紹介します。完成から2世紀半以上の時を経て、明治初期にその真の力を見せつけた熊本城のすごさとは?
明治新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争は、新政府軍の勝利で終戦。幕府は名実ともに消滅し、日本は近代国家へと歩みはじめます。それは長く続いた身分制度の解体でもありました。これによって特権を失った武士たちは、不満を爆発させて各地で反乱を起こします。そしてついに、明治10年(1877)、新政府と意見を違えて故郷の鹿児島県に帰っていた西郷隆盛を担ぎあげ、西南戦争がはじまりました。隆盛が率いる軍勢は、緒戦の相手を新政府軍が守る熊本城に定めて進軍します。
西南戦争では加藤清正が築いた堅城の真価が発揮された(熊本地震以前に撮影)
築城名手がすべてを注ぎ込んだ粋の城
日本が幕末の動乱期を迎えた19世紀後半は、世界でも大きな戦争が起きていました。フランス・イギリス連合とロシアが敵対して争ったヨーロッパのクリミア戦争、アメリカの内戦である南北戦争などです。そして、これらの戦争を通じて開発改良されたライフル銃や大砲などの最新兵器は、外国人商人によって日本にももたらされました。
こうして武器の攻撃力は上がりましたが、その攻撃を受ける城の防御力はあまり変わりませんでした。幕府が新しい城の建設を厳しく制限していたからです。このため、日本の城のほとんどは幕末に入っても近世城郭の姿を保っており、戊辰戦争では当時最新鋭の兵器に激しく攻撃されて宇都宮城が焼失したり、会津若松城の天守閣がぼろぼろになったりしています。
戊辰戦争の砲撃で損壊した会津若松城天守。城のシンボルである天守は、目立つため砲撃の標的になりやすかった(会津若松市提供)
しかし、築城時の姿を残しながらも最新兵器の攻撃に揺るがなかった城があります。それが、熊本城です。築城したのは戦国大名・加藤清正。天下人・豊臣秀吉の忠臣で、秀吉の後継者である豊臣秀頼をいざというときにかくまうために熊本城を築いたともいわれています。これを裏づけるように、熊本城には清正独自の高石垣や複雑な地下通路、さらには本丸からの秘密の抜け穴といわれる石門までつくられました。清正は築城の名手として名高く、その技術の「メガ盛り」が熊本城なのです。
加藤清正の銅像。熊本の発展に寄与した清正は、現在も「清正公(せいしょこ)さん」と慕われている
熊本城の完成は戦国時代末期の慶長11年(1606)。実際に秀頼が入ることはなかったため実力はわからないままでしたが、完成から2世紀半以上の時を経た明治10年(1877)に真の力を見せつけました。それは、西郷隆盛が旗頭となって明治新政府軍を相手に戦った西南戦争でのことです。
暴発した武士の不満が西郷隆盛を担ぎあげる
上野に立つ西郷隆盛像。維新の立役者は、なぜ反乱を起こしたのだろうか
さて、ここで「おや?」と思った方も多いでしょう。西郷隆盛といえば、明治維新の中心人物である維新三傑のひとりですよね。戊辰戦争で新政府軍を率いて勝利したあとは新政府のメンバーとなったのに、なぜ新政府と敵対して西南戦争を起こしたのでしょうか。
実は隆盛は新政府をすぐに辞職して、江戸時代に薩摩藩と呼ばれていた故郷の鹿児島県に帰っているのです。その原因は、朝鮮との外交問題である「征韓論」で政府の中心と意見を違えたためでした。当時の朝鮮は江戸時代の日本と同じように鎖国をしており、新政府が送った友好親善の国書を拒絶しました。この態度は国際ルールで敵対するという意味だったため、隆盛は使節を派遣して朝鮮を説得するべきだと主張します。しかし現在の大蔵大臣にあたる大蔵卿の大久保利通などが、むやみに朝鮮を刺激したら戦争になると大反対。最終的に使節派遣は立ち消えになり、隆盛は新政府と考えが合わないと感じて去ったのです。
隆盛が下野するきっかけとなった征韓論を描いた錦絵
こののち新政府は日本を民主主義国家とするため、武士が特権階級とされる身分制度を廃止しました。これによってすべての国民が平等になりましたが、かつての武士たちは幕府からもらっていた高額な給与を減らされ、帯刀つまり武士の魂である刀を身につけることを禁じられてしまいます。武士たちがこれに不満をつのらせたことは想像にかたくありません。
一説によると、隆盛は征韓論で朝鮮の武力制圧まで考えていたようです。制圧に向かうのはもちろん武士。隆盛は新政府成立の初期から武士が役割を失うことを心配しており、武士の新しい仕事として征韓論を主張したともいわれます。そんな隆盛が政府から離れたとなれば、不満をためた武士が集まるのは当然の流れ。鹿児島は不満を持つ武士のたまり場になったため、隆盛は武士たちが暴動を起こさないよう、私学校という陸軍士官養成学校を設立して教育に励みました。
しかし新政府は私学校を「政府に反乱するための軍隊をつくる学校」と危険視して、鹿児島から武器や弾薬を運び出しました。この新政府のやり方に武士たちの怒りは頂点となり、ついに私学校のリーダーである隆盛を旗頭にした西南戦争がはじまるのです。
「清正公に負けたのだ」
つまり西郷隆盛は、自分から西南戦争を起こしたわけではありません。それどころかもともとは開戦に乗り気ではなかったといわれます。ところが新政府に隆盛の暗殺計画があると知ったため、ついに戦いを決意したのでした。実はこの暗殺計画は、「視察」にきた新政府の使者を、「刺殺」にきたと勘違いしたという説もあります。
隆盛率いる私学校軍は最終的に東京の新政府を問責するため、まずは九州から本州への経路を確保する第一歩として熊本城を攻めると決めました。対する新政府軍は、九州の警備にあたる熊本鎮台の司令長官・谷干城(たにたてき)が熊本城に入ります。
このときの兵力は私学校軍が約1万3千に対し、新政府軍が約3500。新政府軍の圧倒的不利に見えましたが、私学校軍が3日間にわたって包囲からの一斉攻撃をしかけても熊本城はびくともしませんでした。特に高さ20mにも達する高石垣「清正流石垣」は、下が緩やかにカーブしながら最上部がほぼ垂直になるオリジナルの積み方。一見すると登れそうですが実際はとても難しく、「武者返し」とも呼ばれます。私学校軍はこの石垣に阻まれて、一人も城内に入れなかったのです。戦国時代の城が、近代兵器の攻撃さえはね返したとは驚きですよね。
そこで私学校軍は力押しの攻城から兵糧攻めに作戦変更しましたが、新政府軍が次々と送りこんだ援軍によって52日後に包囲を突破されます。もはや戦線の維持は不可能だと悟った隆盛は、熊本城攻略をあきらめて退却しました。隆盛は退き際に、「新政府軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」という内容を言い残したといわれます。
強い反りを持ち、複雑に入り組んだ石垣と多数の櫓群は西郷軍を寄せ付けなかった。しかし、城内の建物の多くはこの時の戦火で焼失してしまう(熊本地震前に撮影)
ここまでの堅城ぶりを発揮した熊本城ですが、2016年の熊本地震によって石垣や櫓に深刻な被害を受けました。復旧には長い時間がかかると考えられますが、2018年には「熊本城復旧基本計画」が決定され、具体的なプランが動き出しています。2019年秋には復興のシンボルとして大天守が外観復元される予定で、確実に復活への道を歩んでいるのです。
熊本市によると小天守を含めた復旧は2021年頃になるという
執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。