城:縄張から普請まで 織田信長の城・安土城 第3回 | 発掘調査で解ったこと

1.発掘調査された場所

平成になって20年間に渡る発掘調査によって、安土城の伝本丸御殿及び、天主台のほぼ全容が判明した。また、主要部の伝三ノ丸跡、本丸取付台、伝二ノ丸東溜りも、遺構確認のためのトレンチ調査が実施され、建物の礎石(柱を支えるための石)等が確認されている。

alt
安土城主要部曲輪配置図(滋賀県安土城郭調査研究所作成)

2.天主台の調査成果

天主台穴蔵(地階)の調査では、20m四方程の範囲に、柱と柱の間が7尺(約2.1m)で軸線がほぼ正方位(真北)となる碁盤目状に並んだ大型礎石111石を検出(軸線上に位置する礎石は89石)。礎石の大きさは70~80×90~100cm程度のものが多く、熱を受けて劣化した痕跡や、柱が置かれていた痕跡を残すものも認められている。床面は、全面にわたって山土に消石灰とにがりを混ぜ、たたき締めて固められていた(叩き漆喰)。ほぼ中央に1石分のみ礎石も漆喰も無く、1.4×1.2mの方形で深さ約1mの穴(土坑)が確認されている。この穴の中全部に、焼けた土と思われる土砂と木炭化した木片が充満していた。天主を支えた心柱が建っていた跡と考えられる。

alt
天主台穴蔵内部の礎石

3.伝本丸跡の調査成果

中枢部で最も低い場所に位置するのが伝本丸跡で、本丸取付台には石段で上がれるが、伝三ノ丸に直接連絡する通路は存在しない。内部は礎石等を据えた後に土を数10cm入れてほぼ平らに造成されている。中央部には東西16列、南北12列の礎石建物が確認された。昭和16年の調査では礎石99石を確認。平成の調査では内97石が残っており、2石が亡失していた。未調査部分で新たに18石の礎石、建物内部で21ヶ所の礎石を抜き取った痕を確認している。この建物は東西32.5×南北24mの広さを持ち、一部に礎石の無い場所があることから、北に開口部を持つ「コ」字形平面の建物と推定されている。

alt
南東より見た本丸

4.伝二ノ丸跡・伝三ノ丸跡の調査成果

伝二ノ丸跡は、天主の西側に付設された郭で、その高さは伝本丸跡と天主のほぼ中間点にあたる。南北方向に長い不整形な多角形で、北東部分に天主の裾を廻る通路状の平な面と繋がっている。内部には礎石と思われる石材も散見するが、現在織田信長廟が造営され、廟所となっており、全容がはっきりしない。

伝三ノ丸跡(伝名坂邸跡)は、主郭部の南東端に位置する独立した郭で、主郭部のどことも接続していない。北東及び南東側は高さ約10m以上の高石垣、伝本丸跡とは高低差が約5mの石垣によって隔てられている。郭内からは明確な礎石列2列、伝本丸跡や天主跡と同規模の15石の礎石、石列状の遺構1基が確認され、建物が存在していたことが確実だ。

alt
天主より見た二の丸跡

5.伝三ノ丸南郭と本丸取付台の調査成果

伝三ノ丸南郭は、伝三ノ丸跡の南東に位置する一段低い「へ」の字を逆にしたような形をしている。現在伝三ノ丸へ上がるスロープが存在するが、調査によりスロープが天正10年(1582)の火災後から『貞享古図』(1687年製作)が描かれた間に作られたことが判明した。古図に見られる石段等も検出されず、伝三ノ丸との接続は無かった。4石の礎石が検出されたことで、建物があったことは確実となっている。

本丸取付台は、天主台の周囲を取り囲む帯郭の一つで、天主の東下に位置し、伝二ノ丸跡とほぼ同一の高さとなり、そのまま繋がっている。また、伝本丸東虎口を挟んで伝三ノ丸跡とも同じ高さである。北側に伝本丸北虎口、南側中央部に伝本丸跡へと続く石段が残る。ここにも、礎石が確認されており、主要部の郭全てに建物が建っていたことが解ってきた。安土城主要部は、天主を中心に所狭しと建物が連なる構造だったのである。

alt
天主取付台南面石垣と本丸からの石段

▶「城:縄張から普請まで」その他の講座はこちら

alt
加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

著書 『織豊権力と城郭-瓦と石垣の考古学-』高志書院 2012年
   『江戸城を極める』サンライズ出版 2014年
   『織田信長の城』講談社現代新書 2016年
   『静岡県の歩ける城70選』静岡新聞社 2016年
   『日本から城が消える』洋泉社歴史新書 2016年 等多数

関連書籍・商品など