城:縄張から普請まで 織田信長の城・安土城 第1回 | 安土選地

1. 天下布武の拠点

天正4年(1576)正月中旬、織田信長は天下布武の根拠地とするため近江国の安土山(滋賀県近江八幡市)に築城を命じた。総奉行は、京と岐阜のほぼ中間点に位置する佐和山城(滋賀県彦根市)主として、頻繁に往来する信長の中継場所を確保し続けてきた織田家重臣丹羽長秀であった。信長は、近江での宿泊施設を提供し、維持管理してきたその手腕を高く評価したのである。

当時、東国・北陸から都へは、北国街道~中山道(東山道)が利用された。東海道を利用するにしても必ず近江を通過することになる。中山道は、観音寺山と箕作山の間が隘路となり、交通の関門であった。この要衝の地を押さえるために、近江守護佐々木六角氏は、観音寺山に居城を築き、箕作山に出城を置いて、この要衝を掌握していたのである。

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安土山、観音寺山を見る

2. 安土の位置

湖東平野からほぼ琵琶湖全域を眺望できる標高約433mの繖山の一支脈の安土山(標高約199m)は、琵琶湖東岸に位置し、中山道は南方約2kmを東西に走っている。近江国は、北は北陸、東から南に東海・伊勢、西は畿内と接する。安土山から岐阜城までは約75km、伊勢阿濃津、奈良、摂津茨城、若狭敦賀あたりまでも等距離で、東海と伊勢、北陸と近畿のほぼ中間点に位置することで、各地区からの人や物の交流がほぼ同時間内に把握できるという利便性があった。

安土山は、東西約0.9km、南北約1.6kmの二等辺三角形状を呈し、山頂部の標高は約199m、その比高差は琵琶湖水面から約113.5m、また平地とは約110mである。現在の安土城は、度重なる干拓事業によって琵琶湖からはるかに隔たり、平野内の独立丘陵のように見えるが、信長時代は、琵琶湖最大の内湖群に南を除く三方が取り囲まれていた。安土山は、北西側の弁天内湖(西の湖)、東の伊庭内湖に突き出た半島状を呈し水城の要素を兼ね備えていた。併せて、南面も低湿地が広がる地であった。

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西から見た安土山

3. 交通・軍事・経済の掌握

安土の地は琵琶湖東岸のほぼ中間点で、安土山の足元まで入り込んでいた内湖を利用した湖上交通の把握も容易であった。ここは、豊浦港・常楽寺港という二つの主要な港が存在し、さらに無数の水路が縦横無尽に走る「水の都」だったのである。琵琶湖には、古くから漁撈や水運に従事しながら参戦する「湖賊」と呼ばれる集団がいた。やがて、信長は彼らを支配下に置き、琵琶湖の自由な往来を可能にしていく。

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常浜(常楽寺港跡)

安土の地は、中山道を押さえる戦略的要衝の地であったが、信長は、軍事的側面以上に、経済的・政治的効果を考えたのである。安土築城後、琵琶湖北岸に長浜城(羽柴秀吉)、安土の対岸に甥・信澄の大溝城、南岸に明智光秀の坂本城という三城の水城を築かせた。こうして琵琶湖制海権を掌握した信長は、安土を中心とする湖上の交通・軍事掌握のネットワークを完成させ、船運による大量の物資・兵力を迅速に輸送するシステムを構築して行く。さらに、坂本から都へ抜ける志賀越えの山道を整備拡張した。諸城の配置は、琵琶湖制海権のみならず陸路をも見据えていた。北陸道と東山道の押さえとして長浜城、若狭・北陸より湖西の防衛を大溝城、都と比叡山に対する坂本城であった。そのほぼ要に位置する安土の地は、軍事・経済の一大拠点となったのである。

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天主より北東長浜方面を見る

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加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

著書 『織豊権力と城郭-瓦と石垣の考古学-』高志書院 2012年
   『江戸城を極める』サンライズ出版 2014年
   『織田信長の城』講談社現代新書 2016年
   『静岡県の歩ける城70選』静岡新聞社 2016年
   『日本から城が消える』洋泉社歴史新書 2016年 等多数

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