明智光秀とその周辺|小和田哲男 第9回 安土城下の明智邸はどこにあったか

天正4年(1576)正月、織田信長は丹羽長秀に命じて安土城の普請にかからせているが、『信長公記』に「御馬廻御山下に各御屋敷下され、面々手前々々の普請申付けらる」とあるように、同時に馬廻衆の屋敷づくりにも取りかかっている。信長が自身の居城である安土城の築城と城下町づくりをセットで考えていたことがうかがわれる。

信長の時代、兵農分離がかなり進んでいたため、重臣たちだけでなく、全家臣団の城下への集住が可能であり、家臣団の多くが岐阜から安土へ移住することになった。

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