2022/12/21
戦国10大合戦と城|小和田哲男 第9回 厳島の戦い
戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。第9回のテーマは、毛利元就が陶晴賢を打ち破った「厳島の戦い」です。毛利軍と陶軍の間には圧倒的な兵力差がありましたが、元就はどうやって数的不利を克服したのでしょう? 元就が駆使した巧みな謀略に注目しながら、合戦の行方を見ていきましょう。
謀略を駆使して勝った毛利元就
毛利元就が陶晴賢(すえはるかた)を破った厳島(いつくしま)の戦いについては、昨年「籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する」第6回「厳島宮尾城の戦い」で詳述したことがある。今回、それとは異なる視点で厳島の戦いそのものを追いかけてみたい。ところで、厳島の戦いは「西の桶狭間」などとよばれることがある。わずか4000の兵で、2万の陶軍を破ったからである。「兵多きが勝つ」といわれていた時代、元就はどうして5倍もの敵を討ち破ることができたのだろうか。
答は、元就の謀略を駆使した戦い方であるが、その謀略的手段の中に、厳島の宮尾(みやのお)城(別名 宮ノ尾城・要害山城。広島県廿日市市)をめぐる駆け引きがあったのである。そのことはあとでくわしくみていくことにして、まず、それ以外の謀略を整理しておこう。
陶晴賢は、はじめ隆房と名乗っていて、大内義隆の重臣で周防守護代の地位にあった。ところが、天文20年(1551)8月末、クーデターによって大内義隆を自刃に追いこみ、名目上の主君として大内氏から晴英(はるひで)を迎え、その偏諱(へんき)を受けて晴賢と改名し、実質的に旧大内領国だった長門・周防を支配下に置いており、その最大動員兵力が2万だったのである。
その陶晴賢と敵対することを決意した元就は、まず、その軍事力を殺(そ)ぐことを考え、実行に移している。そこで元就がターゲットとして選んだのが、晴賢の重臣江良房栄(えらふさひで)であった。元就は、晴賢の周辺に、「江良房栄が元就と内通している」といううわさを流させている。これを当時は離間策(りかんさく)といっているが、謀略と気づいていない晴賢は家臣の弘中隆兼に命じ、江良房栄を暗殺している。これで元就は敵の勢力の一部を殺ぐことに成功したわけである。
謀略の第2弾ともいうべきものが、元就による晴賢の厳島おびき出し作戦である。元就は、平地で4000の軍勢では2万の晴賢に勝つことはむずかしいが、狭いところでの戦いなら勝機があるかもしれないと考えた。そこで選んだのが厳島だった。
厳島は、周囲が30.9キロメートル、面積が30.39平方キロメートルあり、島として決して狭いとはいえないが、島のほとんどは山で、実際に人間が動くことのできる空間はそう多くはない。原や河原などの広いところで大軍とぶつかれば、少ない軍勢の側に勝ち目はほとんどないが、狭い地形に誘い込めば、少数の側にも勝機が得られる可能性がある。元就が晴賢の大軍を厳島におびき出したのはそのためであった。

厳島の戦い 図(小和田哲男著『戦国10大合戦の謎』)
「いま宮尾城を攻められたら一たまりも無い」
そこで、元就が晴賢をおびき出すために使ったのが城である。その城を宮尾城といった。この城は、元就が厳島の戦いを前にして新しく築いたもので、しかも、その城に、それまで晴賢の家臣で、少し前に元就に寝返ってきたばかりの己斐(こい)豊後守と新里宮内少輔(にいざとくないのしょう)の二人を置いて城を守らせているのである。これだけでも晴賢を刺激するのに十分であったが、元就は追い打ちをかけるようにもう一つ謀略的手段をとっているのである。
元就は、何と、「厳島に兵力を割いたのは失敗だった。いま宮尾城を攻められれば一たまりも無い」と、元就が反省しているというそのうわさを流させていた。おそらく、ふつうの武将なら謀略といってもそこまでだろう。ところが元就はさらにもう一つ、謀略を駆使しているのである。
「念には念を」というわけで、並行してもう一つの謀略を仕掛けている。元就は自分の居城郡山城(広島県安芸高田市)の留守を預かっている重臣の桂元澄に命じ、「晴賢に内応する」という偽りの密書を書かせたというのである。要するに、「晴賢殿が厳島を攻めたら、私もそれに応じて元就を攻めます」と、元就を挟み撃ちにするという内容であった。
10月1日の厳島の戦い

宮尾城本丸
弘治元年(1555)9月21日、晴賢は500艘の船に分乗して厳島に渡り、宮尾城の南、厳島神社の近く、塔ノ岡というところに着陣した。そのころ宮尾城を守っていた元就方の兵はわずか500ほどなので、すぐに攻めれば落とせたはずであるが、攻めていない。これは、晴賢が、桂元澄の内応の約束を信じきっていて、「元就が宮尾城の後詰のため、厳島に渡ってきたところを迎え撃ち、背後から攻めかかってくる桂元澄内応軍とで挟み撃ちにしよう」と考えていたからである。

宮尾城堀切
一方、「陶軍2万、厳島に渡海」という情報を得た元就は9月30日深夜、ひそかに厳島の包ヶ浦(つつみがうら)に上陸している。なお、晴賢がしばらく宮尾城を攻めなかったのは、晴賢の軍配者が「その日は悪日(あくにち)だから」といったといわれている。

毛利元就の上陸地点となった包ヶ浦
戦いは10月1日、夜明けとともにはじまった。元就軍は包ヶ浦から博奕尾(ばくちお)の峰を越え、塔ノ岡の晴賢本陣の近くまで進み、2万の大軍に攻めかかった。前夜が暴風雨だったので、晴賢の方では、「こんな暴風雨では元就も厳島には渡れないであろう」と考えていたため、全くの予想外の攻撃で、たちまち大混乱に陥った。狭い厳島に晴賢の大軍をおびき出した元就の計算勝ちだった。
結局、晴賢は塔ノ岡から海岸沿いに西へ逃れ、一説には大江浦というところで自刃したといい、別な説では、大江浦から山を越え、島の南、青海苔浦へ出たが、船をみつけることができず、再び山の中に引き返し、高安ヶ原というところで自刃して果てたという。
ちなみに、『吉田物語』によると、この厳島の戦いにおける陶軍の戦死者は4780人におよんだという。いかにすさまじい戦いだったかがわかる。
戦いの後、元就は、血で汚された厳島神社の社殿を潮水できれいに洗い流し、さらに、島全体が聖域でもあったため、血をすった部分の土を削り取らせたともいわれている。
元就は厳島の対岸廿日市(はつかいち)の桜尾城(広島県廿日市市)までもどり、10月5日、そこで晴賢以下、敵将の首実検を執り行っている。
このあと、大内領国を併合する形となった元就はさらに版図を拡大していくことになるわけで、厳島の勝利が飛躍の原点であった。嫡男隆元に宛てた教訓状の中に「はかりごと多きは勝ち、少なきは敗け候と申す」とある言葉通りの戦い方であった。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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