2021/08/23
城と光秀|小和田哲男 第9回 八上城攻めと黒井城攻め
本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2012年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公としてその人生が描かれました。『麒麟がくる』の時代考証を担当される小和田哲男先生による連載「城と光秀」の第9回目。光秀は、第1次黒井城攻めでは失敗に終わるが、信長に叱責されなかった。光秀の軍略を高く評価していた理由とは?(※2019年10月2日初回公開)
八上城攻めの失敗と光秀
信長から命ぜられた丹波経略にあたり、光秀は天正3年(1575)11月、山城国からではなく、但馬国から丹波国氷上(ひかみ)郡の黒井城に攻めかかっている。黒井城の城主は荻野直正で、赤井悪右衛門の名でも知られている。
黒井城の戦いは、このあともう一回あるので、このときの戦いは第1次黒井城の戦いとよばれている。この戦いには、多紀郡八上(たきぐんやかみ)城の波多野秀治が、光秀陣営に加わっており、光秀としては簡単に落とせると考えていたらしい。ところが黒井城は要害堅固な山城で、光秀の猛攻にもかかわらず、容易に落ちなかった。そればかりか、翌天正4年(1576)正月15日、突然、波多野秀治が寝返って荻野直正側についたため、第1次黒井城攻めは失敗に終わり、光秀は自分の居城である近江坂本城に逃げ帰っているのである。
ふつうならば、信長から叱責され、場合によっては丹波経略の大将を更迭されるところであるが、どういうわけか、叱責された形跡もなく、また、更迭もされていない。信長としても、「誰がやってもこうなった」と考えたのかもしれない。信長も光秀の軍略を高く評価していたものと思われる。
しかし、光秀にしてみればこの大失態はショックで、しばらく病気がちとなり、出陣していない。また、紀伊国雑賀(さいか)攻め、大和国の松永久秀攻めにも動員され、光秀としても丹波経略に集中できる状況ではなかった。
ようやく、翌5年(1577)10月、丹波に出陣し、亀山城を落とし、6年3月から本格的な八上城攻めに取りかかっている。八上城にはいくつもの支城があり、光秀はまず支城を一つひとつ攻め落とし、八上城を孤立させる戦法をとった。この作戦は順調に進んだが、八上城を落とすまでにはいかなかった。それは、八上城攻めに集中することができなかったからである。

八上城全景
それまで信長陣営に属していた播磨三木城の別所長治が反旗を翻し、毛利方につき、また信長家臣だった摂津有岡城の荒木村重までもが毛利方になってしまったのである。光秀の娘が村重の子村次に嫁いでいたということもあり、光秀自身、村重の説得に行っているが無駄だった。
結局、八上城の波多野秀治が降服してきたのは天正7年6月2日のことだった。
黒井城を落として丹波を平定
そこでいよいよ同年8月からの黒井城攻めとなる。これを第2次黒井城の戦いとよんでいるが、城主は荻野直正ではなかった。直正は同6年3月9日に亡くなっており、家督を子の直義がついでいた。ただ、まだ幼かったので叔父の赤井悪七郎が陣代をつとめ、黒井城の支城鬼ヶ城を守っていた赤井五郎忠家も黒井城に合流している。ちなみに、この赤井忠家は荻野直正の兄家清の子である。

黒井城本曲輪
黒井城は、猪ノ口(いのくち)山の山頂部を本曲輪とし、三方にのびる尾根伝いに二の曲輪・三の曲輪を配し、本曲輪には野面積の石垣が残存し、昭和初期までは建物の礎石があったといわれている。虎口もしっかり残っていて、いかにも難攻不落の城だった雰囲気がある。戦いの最後の模様は『信長公記』天正7年8月9日条に、つぎのようにみえる。

黒井城本曲輪石垣
八月九日、赤井悪右衛門楯籠り候黒井へ取懸推詰候処に、人数を出だし候。則、噇と(どっと)付入(つけいり)に外くるは(曲輪)まで込入り、随分の者十余人討取る処、種々降参候て退出。維(惟)任右の趣一々注進申上げられ、永々丹波に在国候て粉骨の度々の高名、名誉比類なきの旨、忝(かたじけな)くも御感状成下され、都鄙(とひ)の面目これに過ぐべからず。
ここに「維(惟)任」とあるのが惟任日向守、すなわち光秀である。光秀は、天正3年9月から4年がかりでようやく丹波平定を成しとげたのである。信長から「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」と絶賛されたことも『信長公記』にみえる。
なお、『丹波誌』によると、そのころ、光秀は信長から丹波一国を与えられたという。丹波は近世の石高だと29万石で、それまでの近江国志賀郡が5万石なので、合わせると34万石となる。こうした場合、ふつうは旧領の近江は取り上げられることが多いが、光秀の場合は純粋な加増であった。それだけ、光秀の働きを信長が高く評価したことを示している。
光秀は、この黒井城に重臣筆頭の斎藤利三を入れている。利三の娘お福(春日局)はこの黒井城で生まれたという。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数









