明智光秀とその周辺|小和田哲男 第6回 本国寺の戦いから二条城の築城へ

本能寺の変で織田信長を討った武将として知られ、2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公として描かれた明智光秀。連載講座「明智光秀とその周辺」では、ドラマの時代考証を担当される小和田哲男先生が、光秀の生涯に影響を与えた人々や出来事に全12回でスポットライトを当てていきます。第6回は、三好三人衆の攻撃を迎え撃った「本国寺の戦い」で光秀が残した活躍を、当時の資料を紐解きながら迫ります。(※2020年9月23日初回公開)

将軍仮御所としての本国寺

上洛し、将軍になったものの足利義昭には京における将軍御所はなかった。永禄8年(1565)5月19日の三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好政康・岩成友通)らによる襲撃で足利義輝の将軍御所が焼けてしまったからである。そこで信長は、義昭を清水寺に入れ、すぐ将軍仮御所の普請にかかった。

そのとき選ばれたのが六条の本国寺という日蓮宗の古刹である。当時、京都市下京区柿本町にあり、現在は京都市山科区御陵大岩町に移転している。

『本圀寺志』によると、信長の命令で、義昭が将軍になった永禄11年(1568)10月から寺全体を取り囲む惣構土手の普請がはじまっている。すると信長は工事の開始を見届けるかのように、10月26日に京都を離れ、岐阜にもどってしまった。

信長としては、「これで自分の役目は終わった」と考えたのかもしれないが、不思議なのは、多くの家臣を引き連れて岐阜にもどり、京都には2000ほどの家臣しか残していなかったことである。義昭が将軍になった以上、将軍に弓を引く勢力などあらわれないと考えていたのかもしれない。

しかし、これは信長の判断ミスだった。信長によって京・大坂を逐われ、阿波に逼塞していた三好三人衆が阿波から船で和泉に渡り、京都に向かってきたのである。信長が大軍を率いて岐阜に引き上げ、義昭の本国寺にはわずかの兵しかいないことを情報でつかんでいたものと思われる。

本圀寺
旧本圀寺。現在は本願寺聞法会館が建ち、残りは駐車場となっている

本国寺で防戦する光秀

結局、翌永禄12年(1569)正月5日、三好三人衆と、信長によって美濃を逐われた斎藤龍興らが本国寺を囲み、戦いとなった。注目されるのは、そのことを記す『信長公記』に「六条に楯籠る御人数」として「明智十兵衛」の名前がみえる点である。

従来は、これがたしかな史料に光秀の名前がみえる最初とされていたが、本連載の前回「足利義昭と織田信長を結びつけたのは光秀か」でみたように、永禄11年(1568)6月の時点で信長との交渉にあたっていたことがうかがわれるので、これが最初というわけではない。ただ、このときの戦いの模様を『信長公記』は次のように描写しており、光秀らの防戦は高く評価されたことがわかる。

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本圀寺境内跡(現在の本願寺聞法会館)  原案:高橋邦夫

……御敵薬師寺九郎左衛門幢本へ切つてかゝり、切崩し、散々に相戦ひ、余多に手を負せ、鑓下にて両人討死候なり。襲懸れば追立つて、火花をちらし相戦ひ、矢庭に三十騎ばかりを射倒し、手負死人算を乱すに異ならず。

「射倒し」とだけあるので、それが弓矢なのか鉄砲なのかわからないが、このころになると、弓矢よりも鉄砲の方が多く使われているので、銃撃戦だった可能性がある。そうなると、鉄砲の名手だったといわれる光秀の活躍が群を抜いていたとみることもできる。

こうして三好三人衆の攻撃は撃退することができたが、信長としては本国寺の仮御所では防備の点に不安があると思ったのであろう。早くも翌月2月27日から新しい将軍邸としての二条城(京都府)築城に取りかかっているのである。

場所は現在の京都市上京区烏丸出水から新町丸太町にかけてのあたりで、かつて、そこには斯波氏の屋敷があった。なお、『明智軍記』には「光秀縄張ノ棟梁タリ」とあり、光秀が二条城の縄張を担当したように書かれているが、傍証史料はない。ただ、ルイス・フロイスが『日本史』の中で光秀のことを「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主」と高く評価しているので、奉行の一人として築城にタッチしていたことはたしかだと思われる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数