戦国10大合戦と城|小和田哲男 第6回 大坂の陣

戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。第6回のテーマは、大坂城を拠点とする豊臣軍と徳川軍が雌雄を決した「大坂の陣」です。大坂の陣はなぜ起きたのか? また、大坂の陣といえば、真田信繁が築いた真田丸をめぐる攻防が有名ですが、真田丸の構造と大きさはどのようなものだったのか? 最新の研究結果も交えて見ていきましょう。

大坂の陣は回避できなかったのか

「歴史は結果からだけで判断しては駄目だ」というのが私の持論である。慶長19年(1614)から翌年にかけての大坂冬の陣・夏の陣についてもそうである。結果として、徳川家康が大坂城(大阪府)の豊臣家を滅ぼすことになるが、家康がはじめから豊臣家を滅ぼすつもりだったという主張には異論がある。豊臣家を存続させる道も考えていたのではなかろうか。

では、なぜ、そのようにならなかったのかであるが、これは、家康の考える幕藩体制的秩序というものが関係する。周知の通り、家康は慶長8年(1603)に征夷大将軍に就任し、幕府を開くことになるが、将軍職をたった2年で息子の秀忠に譲っている。ふつうに考えれば、織田信長および豊臣秀吉の下で忍従の長年月を過ごしてきた家康のことだから、やっとつかんだ天下人の座なので、死ぬまでその職についていたいと考えたはずである。しかし、家康は賢かった。「将軍職は徳川家が世襲する」と宣言した形で、これは、「秀頼が成人すれば、また関白豊臣政権が復活する」と考えていた大坂方に対する最後通牒の意味をもたせた形である。

これによって、秀忠と秀頼の関係は、幕府の機構上、将軍と一大名ということになる。家康も早い段階でそうした方向性をはっきりさせようと考えていて、慶長12年(1607)3月、家康から秀頼に対し、駿府城(静岡県)の手伝い普請が命じられている。駿府城は家康の隠居城として築城がはじめられたもので、天下普請という位置づけであった。

このとき、手伝い普請を命じられた大名は『徳川実紀』や『当代記』などによると、石高500石につき3人の割合で人夫を出すことが求められていた。しかし、秀頼はこの手伝い普請の命令を黙殺しているのである。秀頼およびその母である淀殿には、徳川幕藩体制の一大名になることへの抵抗感があったものと思われる。こうした状況になると、家康としても幕藩体制的秩序を構築させるために、大坂城の豊臣家だけを特例として扱うわけにはいかないと考える。しかし、この段階では、「豊臣家が一大名としての立場に甘んじるなら、大名として残しておこう」とする判断も残されていたと思われる。

それは、例の慶長19年(1614)7月のいわゆる「方広寺鍾銘事件」がおきたが、秀頼の後見人だった片桐且元が弁明のため駿府に赴いたとき、⑴秀頼が江戸に参勤するか、⑵淀殿を人質として江戸に出すか、⑶秀頼が大坂城を退去して国替えに応ずるかの三つを提示されたこととも関係する。これら三つのどれか一つを呑めば、一大名としての存続が許される可能性があったわけである。しかし、淀殿・秀頼はそれを拒絶した。これが大坂冬の陣のはじまりとなる。

単なる出丸ではなかった真田丸

真田丸、心眼寺
元和8年(1622)、かつて真田丸があったとされる場所に心眼寺が創建された

大坂冬の陣のハイライトシーンともいうべきものが真田丸の攻防戦である。この真田丸、従来は、真田信繁(通称幸村)が、大坂城惣構のさらに外側に築いた出丸といった位置づけがなされていた。しかも、場所が現在の三光神社とその周辺で、東西が約140メートル、南北が約220メートルの半円形をした丸馬出といったとらえ方だった。

ところが、その後の研究によって、場所も、これまでいわれていたところよりは少し西、心眼寺や善福寺および明星学園のあるあたりで、東西約220メートル、南北約280メートルの範囲と考えられている(千田嘉博著『真田丸の謎-戦国時代を「城」で読み解く-』)。しかも、惣構の出丸といった位置づけではなく、真田丸と惣構との間に幅200メートルにも及ぶ自然の谷があり、大坂城惣構とは独立した出城を信繁が築いたと考えられるようになってきたのである。

真田丸
真田丸へ上る坂

その真田丸で攻防戦が展開されたのはその年の12月4日のことである。この日、徳川方の前田利常隊と松平忠直隊が、朝まだ暗いうちに真田丸の堀際まで接近し、突如、鬨(とき)の声をあげて真田丸に攻めかかった。前田利常・松平忠直にしてみれば、諸将がなかなか攻めあぐねている様子をみて、自分たちが落として武名をあげようと考えたのであろう。これに藤堂高虎隊・井伊直孝隊も加わって猛攻がはじめられたが、結果は徳川方の惨敗で終わっている。『東大寺雑事記』では、この戦いの徳川方戦死者を1万5000としている。1万5000はオーバーと思われるが、真田信繁が真田丸を守り抜いたことはたしかである。

冬の陣の講和から夏の陣へ

このころになると、家康も力攻めでは落とせないと考え、心理戦に切り換えている。惣構の外から連日連夜、鬨の声をあげ続け、また大砲を使って攻撃をはじめ、実際、大砲の玉が大坂城天守の柱にあたり、怪我人が出はじめ、講和交渉に応じてきた。講和が成立したのは12月19日のことで、ここに、大坂の陣の前半戦ともいうべき冬の陣に幕がおろされることになった。

講和の条件は、よく知られているように、大坂城の二の丸・三の丸、そして惣構の破却であった。信繁が苦心して築き、徳川方を撃破した真田丸も惣構の付属といった位置づけなので破却されることになった。つまり、大坂城は本丸とその堀だけの裸城になってしまったわけである。

豊臣方がどうして裸城になることを承知したのかであるが、このときのくわしい講和条件が伝わっていないのでわからない。堀の埋め立てに関するこまかい約束事は決められていなかったのではないかと思われる。徳川方・豊臣方のとちらがどの部分を埋めるかも曖昧だった可能性がある。豊臣方が埋め立てに応じたのは、築城に何年もかかっているという思いがあるので、埋めるのにも何年もかかるとみていたのかもしれない。徳川方は、大坂城下の民家も堀の埋め立てに使い、短期間で埋めてしまったのである。

埋め立てがある程度進んだところで、「秀頼自身が転封に応じるか、さもなければ牢人を放逐せよ」という要求があり、それを豊臣方が黙殺したことで、翌慶長20年(元和元年、1615)5月の大坂夏の陣となる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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