今回から、かの武田信玄が惨敗し、後に真田昌幸が拠点の一つとした堅城砥石城に関する諸問題を考察しよう。信玄は、天文19年(1550)10月に村上義清の属城であったこの要塞を攻めたが落とせず、村上方の反撃を受けて大敗を喫した。この敗戦は武田方では「砥石崩れ」と呼ばれ、永く記憶されたという(『甲陽軍鑑』)。砥石城は、その成立の経緯や縄張りの拡張過程など、様々な課題を残す城郭である。通説によれば、砥石城は村上→武田→真田氏と支配者が変遷したとされるが、村上氏以前に海野氏が築いたとか、
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