真田一族の城|平山優 第6回 砥石城をめぐる謎(1)

大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者・平山優先生による「真田一族の城」をテーマとした講座。今回から、武田信玄が惨敗し、後に真田昌幸が拠点の一つとした砥石城の諸問題についての考察がはじまります!砥石城はどのように成立し、その後拡張されてきたのでしょうか?

米山城(小宮山城)はどのように成立したか

今回から、かの武田信玄が惨敗し、後に真田昌幸が拠点の一つとした堅城砥石城に関する諸問題を考察しよう。信玄は、天文19年(1550)10月に村上義清の属城であったこの要塞を攻めたが落とせず、村上方の反撃を受けて大敗を喫した。この敗戦は武田方では「砥石崩れ」と呼ばれ、永く記憶されたという(『甲陽軍鑑』)。砥石城は、その成立の経緯や縄張りの拡張過程など、様々な課題を残す城郭である。通説によれば、砥石城は村上→武田→真田氏と支配者が変遷したとされるが、村上氏以前に海野氏が築いたとか、小宮山氏の持ち城であったなどの異説も提起され、これを首肯する考えが強くなってきている(『上田市誌』歴史編など)。では、こうした築城の経緯を窺い知る史料などは存在するのだろうか。

はっきりいえば、砥石築城の経緯を示す直接的な史料は管見の限り存在しない。しかし、室町後期から戦国初期にかけての東信の政治・軍事情勢を探ると、砥石城がどのように成立し、その後拡張されてきたかが、おぼろげながら推察できる。

砥石城跡・米山城跡要図
砥石城跡・米山城跡要図(出展:『上田市誌』歴史編(5)「室町・ 戦国時代の争乱」、上田市教育委員会所蔵)

そこでまず注目したいのが、砥石城の一角を占める米山城の存在だ。砥石城は、四ヶ所の尾根に曲輪(枡形、本城、砥石、米山)が築かれ、これらが連結され、一つの巨大な城砦として機能していた信濃有数の巨大な縄張りを誇る城郭である。このうち、米山城について、次のような記録があることに興味を惹かれる。それは文政3年(1820)成立の「戸石米山古城図」に、砥石城の一角を占める米山城について「此山米麦ノ焼タルアリ、依テ里人米山ト云、小宮山トモ言」と記していることだ。米山城の名の由来は、ここから炭化米が出土することであるといい、また白米城伝説があることで知られ、現在でも祭りが行われている。ところが、この城を「小宮山」とも呼称していたというのだ。米山は、小宮山の転訛したものではないか。信濃の地誌として著名な、『千曲之真砂』に掲載されている「戸石古城之図」にも米山城の場所は「小宮山」とある。このことから米山城は、小宮山氏が築いた小宮山城がその発祥ではないかとの考え方が、古くから提起されてきた。

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砥石米山古城図

ところで、そもそも小宮山氏とは、如何なる氏族であるか。小宮山氏は、滋野一族の流れを汲む武士で、佐久郡小宮山郷(佐久市)を本拠としていた。その後、滋野一族の惣領海野氏に従った一族が、小県郡に移住し、その代官として上田や青木に配置されたといわれる。史料に登場するのは、文明期であるが、ここから小宮山氏と上田との関係が記録され始める。米山城との関係でいえば、小宮山氏が上田の代官に任命された事実は見逃せない。ところで上田とは、戦国末期から近世初期にかけて、真田昌幸・信之父子による上田城と城下町整備により、上田という地名が定着したが、もとは現在の神科台地(染屋台)一帯の広域呼称であった。そして、その名は、この地域に展開していた上田庄に由来する。この荘園の立荘や伝領の経緯はまったく不明であるが、隣接する海野庄とともに近衛家領ではなかったかと推定されている。さて、この荘域については、『上諏方造宮帳』(天正6年〈1578〉)、『上諏方造宮帳』(清書帳、同年)、『上諏方大宮同前宮造宮帳』(同年)などを参考にすると、上田庄は、岩門、日之沢(樋ノ沢)、小窪(国分)、東条(上田市住吉)、笹井、野竹、染屋、新屋、伊勢山、長島、大久保、金剛寺、堀、上沢、黒坪を含む一帯であったと推定されている(『上田小県誌』第一巻他)。これは、神川を東限に、西限は常田庄との境界までであり、既述のようにほぼ神科台地全域に相当する。そして、注意すべきは、北限が金剛寺、伊勢山、すなわち砥石城と米山城が存在する地域なのである。

では、小宮山氏は、上田庄にどのような経緯で関わるようになったのであろうか。それは、海野氏による小県郡への勢力拡大に伴う流れに沿ったものであった。海野氏の所領は、かつて海野庄と呼ばれ、室町後期には「海野十二ケ郷」といわれた地域に相当し、それは神川を西限とし、東限は禰津、田中との境界を分かつ三分川までであったと推定される。しかし海野氏は、応仁3年(1469)までには神川を超えて上田庄に勢力を浸透させ、同年の諏方大社上社頭役を、それまで勤めていた太田氏とともに代官小宮山氏にも実行させている。これが海野氏と小宮山氏が、上田庄に関与をし始めた初見となる。そして、もともと上田庄を管轄していた土豪太田氏(地頭の後裔であろう)を被官に組み込んだとみられる。ところが、太田氏はまもなく上田庄に関する史料から姿を消し、ここは小宮山氏が代官として管轄する地域となった(太田氏は、海野一族会田岩下海野氏や塔原海野氏の家臣になったと推定されている)。

そして、小宮山氏は、上田庄管理の拠点として、長島の「堀ノ内」(上田市大字住吉にある小字名)に館を構えたと推定されている(松本一夫「岩清水地区周辺中世城館の分布状況とその意味」による)。では、海野氏の代官小宮山氏が、小宮山城(米山城)を金剛寺に構えることになった理由は何であろうか。ここでまず、小宮山城の立地を押さえておく必要があるだろう。中世において、海野から川中島方面に行く道は、北国街道(海野―塩尻―岩鼻―中之条―坂木を経て川中島方面へ)、松代街道①(海野―国分寺―金剛寺―金剛寺峠―曲尾―地蔵峠―川中島方面へ)、松代街道②(海野―国分寺―金剛寺―金剛寺峠―曲尾―芝峠―中之条―坂木を経て川中島方面へ)、などが主要ルートであった。このうち、小宮山城に関係するのは、松代街道である。実は、この松代街道は、小宮山城の西麓に沿って通っており、この城が道を封鎖、警戒するために築城されたこと、また小宮山城と至近の場所にある金剛寺峠を押さえる要所であることもよくわかる。このことから、小宮山城は、金剛寺峠方面、つまり川中島もしくは芝峠を超えて通じる坂木方面に対する守りのために築かれた城郭だと考えられるのである。

米山城村上義清公之碑
米山城村上義清公之碑(協力:上田市マルチメディア情報センター)

では、海野氏や小宮山氏が、松代街道を封鎖し、北方からの脅威に対処する必要に迫られるような事態が果たして実在したのだろうか。そこで記録を探ってみると、海野氏が神川を超えて西へと勢力拡大を開始したのと同時期に当たる応仁元年に「此年海野大乱、村上切勝、所領被持候」との記述が認められる(『諏方御符礼之古書』文正2年〈1467〉条)。つまり、応仁元年に海野氏と埴科郡葛尾城主村上政清との間で抗争が勃発しており、海野氏が敗退したことが知られるのである。海野氏は苦戦したらしく同書の応仁元年条には「岩下治(海)野満幸、此歳十二月十四日於海野打死候」とあり、海野氏は一族の会田岩下海野氏の援軍を得て村上氏と戦ったが敗退し、岩下満幸が戦死する被害を受け、所領を奪われたらしい。この抗争は、翌2年まで続いたようだが、海野氏は勢力を盛り返し、村上軍を撃退したようだ。というのも、応仁2年には「海野千葉城」(洗馬城、上田市傍陽)で戦いがあり、村上軍はこれを包囲したものの攻略できなかったらしいのだ。海野まで攻め寄せた村上軍が、芝峠を越えて金剛寺峠に向かう途中の洗馬城で足止めを喰っているのは、海野氏が村上軍を本領海野から辛うじて撃退したことによるものだろう。

つまり、海野氏の勢力拡大は村上氏との抗争の過程で実現したとみられ、その勢力は、上田庄、常田庄、さらに北方の傍陽へと拡大し、その後、一族を常田庄に配置しているので(常田氏の成立)、北と西へと支配領域を拡げていることが確認できるだろう。

こうした情勢をみていくと、洗馬城とともに、松代街道を押さえ、上田庄全域の安全保障を実現すべく築かれたのが小宮山城(米山城)だとはいえるのではないだろうか。今のところ、なぜ小宮山城(米山城)に、海野・小宮山氏築城伝承が存在するかという問題を解くには、応仁元年から始まった村上氏との戦いを除いては考えられない。この地域の城郭の成立と修築については、村上・海野の抗争に注意する必要があるだろう。

では、小宮山城が村上氏の手に落ちたのはいつのことなのだろうか。今のところ、諸史料を検討してみると、応仁・文明期以後、海野氏は小県郡の支配領域を村上氏に奪取された形跡はない。村上氏が、神川以西の小県郡から海野氏の勢力を駆逐するのは、天文10年(1541)の海野平合戦のことである。このことから、村上氏の小宮山城奪取と、砥石築城(拡張)は、天文10年以後のことといえるだろう。なお、真田氏はこの時、幸綱が敗北して海野棟綱とともに上野国に亡命したのであった。そして、この砥石城こそが真田氏の本領復帰を阻む難攻不落の要塞として立ちはだかったのである。

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平山​優(ひらやまゆう)
歴史学者
1964年生。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。


著書 『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(吉川弘文館)
   『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)
   『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)
   『山本勘助』(講談社)
   『真田三代』(PHP研究所)ほか多数