城と光秀|小和田哲男 第6回 宇佐山城から坂本城へ

本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、主人公としてその人生が描かれました。『麒麟がくる』の時代考証を担当される小和田哲男先生による連載「城と光秀」の第6回目では、宇佐山城と坂本城を取りあげます。宇佐山城は近江と京を結ぶ要衝で、信長が森可成に替わる人物として抜擢したのが明智光秀でした。信長家臣として「一国一城の主」第1号となったのは光秀だったのでしょうか。(※2019年7月3日初回公開)

志賀の陣と宇佐山城

元亀元年(1570)6月28日の姉川の戦いで織田・徳川軍に大敗を喫した浅井・朝倉連合軍は、信長が摂津に進軍した様子をみて、石山本願寺の顕如と結び、同年9月16日、3万の軍勢を率いて近江の坂本まで進んできた。

「浅井・朝倉軍に京を占領されたら面倒なことになる」と考えた信長は急遽、兵を近江にもどし、浅井・朝倉軍と対峙することになった。信長生涯最大の危難ともいわれる志賀の陣のはじまりである。

そのころの信長方の拠点になっていたのが宇佐山城(大津市錦織町字牛尾)で、城を守っていたのは信長家臣の森可成(よしなり)である。9月16日、浅井・朝倉の軍勢が宇佐山城攻めにかかったとき、可成は城を出て戦い、1度は追い返すことに成功したが、20日、敵の再度の猛攻を受け、支えることができず、可成は討ち死にしている。

宇佐山城址
宇佐山城址

城は、近江と京を結ぶ要衝で、信長は可成に替えて誰を入れるか悩んだようで、結局、抜擢されたのが明智光秀だった。当時、重臣たちはすでに近江の拠点城郭に配備されており、誰かを宇佐山城に移せば、空いた城に他の誰かを移さなければならなかったわけで、まだ城を任されていなかった光秀に白羽の矢が立ったという事情もあった。

そして、翌2年(1571)9月12日の信長による比叡山焼き討ちとなるわけであるが、この焼き討ちで目覚ましい活躍をしたのが光秀だった。

「一国一城の主」第1号は光秀か

信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにしたものの依然として大勢力の延暦寺を監視するため、宇佐山城より延暦寺に近い坂本の地に城を築くことを考え、光秀をその任につかせている。そこで注目されるのが、このときの論功行賞である。『信長公記』に、「去(さ)て志賀郡明智十兵衛に下され、坂本に在地候なり」とみえる。まだ城ではないので坂本城とは書かれていないが、「坂本を本拠地として、志賀郡を与える」ということになる。

坂本城址碑
坂本城址碑

こういった知行形態を城付(しろつき)知行といっているが、坂本城の城主に任命されただけでなく、城のまわりの土地も与えられたわけで、よく「一国一城の主」などといういい方をする。この場合の「一国」は、近江や美濃といった古代律令制の国ではなく、城付知行である。譜代の重臣といわれる柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛といった光秀の先輩たちも、たしかに勝家の長光寺城、長秀の佐和山城、信盛の永原城といったように城は任されているが、城付知行を与えられていた形跡はない。そのため、私は、光秀が信長家臣として「一国一城の主」第1号だったのではないかと考えている。ちなみに、第2号は羽柴秀吉で、小谷城(のち長浜城)と北近江3郡を与えられたことである。

安土城に先立つ坂本城天主とは

光秀による坂本城築城は早くもその年、12月には始まっている。『年代記抄節』の12月のところに、「明智坂本ニ城ヲカマヘ、山領ヲ知行ス、山上ノ木マデキリ取」とみえる。光秀と親しかった公家の吉田兼見はその日記『兼見卿記』の元亀3年(1572)2月22日のところに、「城中、天主の作事」の工事が進んでいることを記している。周知のように、信長本人の安土城天主の造営が始まるのは天正4年(1576)のことである。安土城天主の4年も前に坂本城に天主が建てられていたことは、信長と光秀の関係をうかがう上で注目されることといわなければならない。

坂本城が豪壮華麗だったことは、宣教師のルイス・フロイスが『日本史』の中で、「信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と記していることからも明らかである。

琵琶湖渇水、石垣
平成6年(1994)琵琶湖渇水で姿を現した坂本城の石垣

2018年12月、お城EXPO2018に明智光秀の娘婿である明智秀満の新発見文書(個人蔵)が初めて公開されたが、坂本城築城に関する文書である。原文のまま引用する。

態申越候、坂本広間ふすま・しやうし、同引手幷くきかくし、何も急うちたき由申越候間、早々遣(中欠)上候、諸事無油断可申付候、少も於疎略ニ者、曲有間敷候、恐々謹言
  六月十日    秀満(花押)
         河上掃部介殿

襖・障子など、内装もみごとなものだったと思われる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数