超入門! お城セミナー 第52回【歴史】お城の近くにはお役所がある!?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。お城に行くと、市役所や県庁を見かけることが多い気がしませんか? 今回は、なぜお役所はお城の近くに建てられることが多いのか探ります。近世城郭の成り立ちにその謎を解くカギがある!?

名古屋市役所、愛知県庁
名古屋城の近くには名古屋市役所と愛知県庁が建つ。近代的なビルに天守風の屋根を載せた外観が特徴的である

織豊大名の城づくりは商業重視!?

日本全国に残る城郭。その中でも、天守や石垣、堀など多くの遺構が残る近世城郭は、アクセスがよく整備も整っていることから、観光地としても人気のスポットとなっていることが多いですよね。そんな近世城郭の近くでは、市役所や県庁などの建物を目にすることがよくあります。

例えば、2018年に本丸御殿が公開され、注目を浴びた名古屋城(愛知県)。1本道をわたると、名古屋市役所、愛知県庁、県警本部などの官公庁街が広がっています。竹中半兵衛の親戚・竹中重利(たけなかしげとし)が築いた府内城(大分県)も内堀のすぐ外に大分県庁が。中でも異彩を放つのは福井県庁。この県庁が建つのは福井城(福井県)の本丸ど真ん中で、いかにも江戸時代の遺構ですといった水堀を超えると、11階の高層ビルがどーんとそびえているのです。また、あまり知られていませんが、福島県庁も板倉氏3万石の居城跡。遺構はわずかに土塁などが残るのみですが、発掘調査などで古代から近世の遺物が多数発見されています。

福井城、福井県庁
福井城と福井県庁。石垣に囲まれた本丸に建つのは天守……、ではなく現代的な県庁ビル。文化財の中に県庁を置くことには異論もあるようで、2019年1月には県庁移転の議論も起こっている

なぜ、近世城郭の近くでは都道府県庁や市役所をよく見かけるのでしょうか? その理由を探るには、近世城郭が全国に普及するようになった織豊期まで時間をさかのぼる必要があります。

天正18年(1590)に天下を統一した豊臣秀吉は、太閤検地による税の基準統一や、堺、博多といった商業都市を抑えて財政基盤を整えるなど、経済感覚に優れた人物でした。そんな秀吉の経済手腕は築城においても遺憾なく発揮されます。

賤ヶ岳の戦いによって織田信長の後継者の地位を確かなものにした秀吉は、信長を超える居城の築造をはじめます。秀吉が目を付けたのは、石山本願寺の寺内町として栄え、紀伊や奈良など西国各地に繋がる街道が集まる大坂。本願寺を退去させた秀吉は、跡地に大坂城(大阪府)の造営を開始しました。さらに河川を堀として城下町に取り込み、瀬戸内海へ続く水運も掌握しました。こうして、水運・陸運が集約された大阪は、秀吉の治世下はもちろん、江戸時代に入ってからも商業都市として大いに栄えたのです。

こうした秀吉の町づくりは、豊臣傘下にあった大名たちによって近世城郭とともに全国に普及。例えば、黒田官兵衛・長政(ながまさ)父子の福岡城(福岡県)は、中国との交易で栄えた博多を城下町に取り込むように造られています。

さらに福岡城は玄界灘を一望できる場所に位置しており、海上交通を一手に掌握することができました。岡山や甲府など、現代でも地方経済の中心となっている都市もこの頃に基盤が造られています。

黒田官兵衛、高松城
黒田官兵衛が縄張を手がけた高松城(香川県)。城域は瀬戸内海に面しており、京や大坂へ向かう船を監視することができた。旧城下町には香川県庁がある

現代の都市へと繋がる織豊期の城下町

城下町の商業都市化を進めた豊臣政権は、慶長19年(1614)に徳川家康によって滅ぼされ、天下は家康が開いた江戸幕府の下に統一されました。徳川家の支配は、幕府を頂点とし、地方行政を大名が行う幕藩体制。大名たちは織豊期に築かれた城を藩庁として受け継ぎます。

さらに、慶長20年(1615)に発布された「一国一城令」によって、藩領内の支城は破却されたため、藩庁となった城の城下町に文化・商業が集中。江戸時代を通じて地方の中心都市として発展していきました。

そして、江戸幕府の成立から約260年後、大政奉還によって江戸幕府の治世が終わり、明治新政府が樹立されます。近代化を推し進める新政府は、明治4年(1871)に中央集権化策の一環として、廃藩置県を断行。これまで大名が政治を行っていた「藩」を3つの「府」と302の「県」に改め、中央から派遣した役人に行政を担わせました。

はじめに設置された府県の領域は、藩のものがそのまま使われたため、行政の中心となる府庁や県庁も藩の政庁だった城や城下町の中心部に置かれています。近代化を急ぐ新政府には、織豊期の大名たちのように新たな町を造る余裕はなく、すでに政治・経済の中心地として発展していた城下町を、そのまま再利用する方が高効率だったというわけです。明治21年(1888)から市町村制が施行されると、府県庁と同様に城下町の中心部に役所や役場が置かれるようになりました。

その後、府県は統合再編を繰り返し、明治23年(1890)にはほぼ現在と同じ1庁3府42県に落ち着きます。統合の際、都道府県庁所在地には県域で最も栄えている場所、つまり県内最大規模の城下町が選ばれました。ただし、交通の利便性や経済的な発展度合いによっては、城下町の弘前ではなく江戸との交易を担った青森が県庁所在地となった青森県のように、小規模藩の城下町や港町、門前町が選ばれることもありました。

このように最大規模の城下町が県庁所在地になれなかった例は、海外貿易によって急速に発展する神戸に取って代わられた姫路、東海道、中山道という主要2街道を抑えていた上に京都にも近い大津に破れた彦根などがあります。

弘前城
弘前城は、10万石という藩の石高以上の規模を持つ城で、廃藩置県施行当初は弘前県の県庁が置かれた。しかし、県域の奥まった場所にあり、交通の便が悪かったため、わずか2か月で弘前県は廃止。県庁も青森に移転してしまった

姫路城、兵庫県
姫路藩15万石の藩庁だった姫路城(兵庫県)。近くに飾磨津(しかまつ)という港を持つなど交通の利便性は悪くないのだが、古来から海外交易を担ってきた神戸には敵わなかった

大都市となった旧城下町は、開発や災害によって建物などはすっかり様変わりしていますが、金沢や出石のように江戸時代以前の面影を残す町もあります。また、すっかり現代化してしまった町でも、「寺町」、「鍛冶屋町」といった地名や碁盤状の区画、鉤の手になった道などから、城下町の痕跡を探ることができます。

ひがし茶屋、金沢市
金沢市のひがし茶屋。加賀百万石のお膝元・金沢には、昔ながらの風景が保存されている

次に近世城郭を訪れる際は、現地へ行く前に古地図などを見て、築城者がどのような意図で町割を行ったのか考えてみてください。そして、その町が城主の意図通りに発展したかという視点で城下町をめぐってみましょう。きっとこれまでの城めぐりでは見えなかった発見があるはずです!


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。


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