超入門! お城セミナー 第51回【歴史】江戸時代の一大事業「天下普請」って何?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。お城の説明や本で「天下普請」という単語を見かけたことはありませんか? 「普請」とは、お城を造る土木工事のこと。では、“天下” の土木工事とは一体どういうことなのか。今回は、天下普請とは何か。一体誰が何のために行ったことなのかを紐解きます!



江戸城、天下普請、皇居
 徳川将軍家の居城・江戸城も、天下普請で比類なき近世城郭に改修された。現在は皇居として使用されているが、その偉容は現存する門や石垣から伺うことができる

多数の大名を動員した大規模築城事業

石垣づくりの近世城郭を訪ねた時、「この城は天下普請(てんかぶしん)で築かれました」といった説明を見聞きしたことはありませんか? お城好きの人たちの会話にも、しばしば登場する言葉です。今回は、この「天下普請」についてのお話です。

築城のためには、土木工事と建築工事が必要です。「普請」は土木工事ですから、天下普請は「天下の土木工事」…? そうです。統一政権下での公共工事のようなものなのです。

築城以外に河川改修や街道整備などの大規模な工事を、全国の大名に割り振って手伝わせることを指します。このため「手伝い普請」ともいわれますが、現場で働く人足の手配から資材まで基本的に大名持ち。天下人にとっては、自分の権力を誇示できるとともに、諸大名の蓄えを減らして勢力を削ぐことも目的の一つだったとか。

かといって諸大名にもメリットがゼロだったわけではなく、参加することで最新の築城技術を習得できました。全国に見事な近世城郭がたくさん誕生したのは天下普請があったから、とも言えるのです。

大坂城、石丁場、小天狗岩石切丁場
 天下普請では石材が大量に必要となるため、大名たちは伊豆や小豆島など石の産出地に石丁場を設けた。こうした丁場跡では、現在でも石を切り出した痕や、使われなかった巨石を見ることができる。写真は大坂城の石丁場である天狗岩石切丁場

このシステムの元となったのは、大名たちが石材などを持ち寄って築城に参加した織田信長の安土城(滋賀県)。その後、豊臣秀吉が天下人となってからも、大坂城(大阪府)、聚楽第(京都府)、肥前名護屋城(佐賀県)、伏見城(京都府)などの築城は、やはり諸大名に動員がかけられました。

しかし、一般的に天下普請とは、徳川政権下での諸大名参加型の大規模工事のことを指します。以下ここでは、江戸幕府が諸大名に命じた築城工事についてお話していきましょう。

天下普請は豊臣包囲網を構築するために行われた!?

さて「天下普請」という言葉は、今のところ本格的な歴史辞典に載るような歴史用語ではないようですが、そのシステムは研究者たちが注目していました。特に江戸幕府の命令下で行われた天下普請は、幕府体制確立のための政治的意味合いが強かったとか。

権威の誇示に加え、豊臣家に恩義を感じている大名たちに対する経済的負担、忠節の証を立てさせるといった目的があり、さらには豊臣家を包囲するように築城して大坂の陣の準備をしたともいわれています。

今治城、藤堂高虎
天下普請では築城名人・藤堂高虎が多くの城の縄張を手がけた。層塔型天守や枡形虎口など、高虎の築城術はコスト面、防御面ともに優れていたため、全国に広まった。写真は高虎が築いた今治城(愛媛県)

とはいえ、秀吉没後から幕府体制の確立までの激動期は、天下普請の意味合いも情勢によって変化したはず。そこで今回は、天下普請を3つの段階に分けて見ていきます。

まずは、関ヶ原の戦いから慶長10年(1605)ごろまで。この時期に天下普請で築城・修築されたのは、伏見城、岐阜城から移転した加納城(岐阜県)、佐和山城から移転した彦根城(滋賀県)、大津城から移転した膳所城(ぜぜじょう/滋賀県)など。

関ヶ原の戦いの一連の戦で落城した城が多いですね。戦後処理、そして美濃・京都間の交通路を抑える意味合いがあったとみられます。ちなみに二条城(京都)や福井城(福井県)もこの時期に天下普請が行われています。

江戸時代、膳所城、絵図
 江戸時代の膳所城を描いた絵図。本丸が琵琶湖に突き出した水城で、琵琶湖の水上交通を抑える役割を担う。現在、本丸は公園となっており、周辺では石垣などの遺構が見られる(国立国会図書館蔵)

次に、この後から大坂の陣まで。徳川家康が征夷大将軍となりますが、依然、大坂で強大な勢力を持っていた豊臣家との対決を念頭に入れていた複雑な時期です。この8年ほどの間に行われた城の天下普請は、江戸城(東京都)の本丸、駿府城(静岡県)、名古屋城(愛知県)、高田城(新潟県)、引き続き彦根城、丹波亀山城(京都府)、篠山城(兵庫県)といったラインナップ。

将軍やその一族・重臣の居城整備、京都の警護固め、そして江戸幕府の重要政策だった東海道をはじめとする街道整備の意味合いもあるでしょうが、丹波亀山と篠山の2城をみると、やはり西国大名への牽制だとも思えますね。

豊臣恩顧の大名たちを、関ヶ原の恩賞として大幅加増のうえ西国に国替えさせたとはいえ、豊臣家が存続しているかぎり、家康は西国を気にせずにはいられなかったでしょう。この2城に限らずこの時期のすべての天下普請が、やはり大坂の陣の準備にもなっていると見ることもできるのです。

それにしても大変だったのは、たびたびの普請にヘキエキしていた大名たち。名古屋築城の時、秀吉子飼いの大名・福島正則(ふくしままさのり)が、「家康の居城ならまだしも息子の城まで自分たちが普請するなんて… やってらんねえよ!」とグチって、盟友の加藤清正(かとうきよまさ)にたしなめられたとか。

尾張藩、名古屋城
 福島正則が普請時に愚痴をこぼしたという名古屋城は、御三家筆頭である尾張藩の居城で、江戸と京を結ぶ東海道を抑えるという重要な役目を担っていた

泰平の世の礎となった天下普請

では、徳川家康の本懐が遂げられた大坂の陣以降はどうでしょう。この時期の城の天下普請は、江戸城の拡張、大坂城、二条城、彦根城ですが、政治的拠点の充実をはかる意味合いがはっきりと見て取れますね。

政権の本拠地である江戸の大都市化、豊臣家亡きあとに経済を掌握するための大坂城の造り替え、そして京での幕府の拠点である二条城は、天皇の行幸を見越しての拡張整備だったとか。

大坂御城図
 徳川家再建の大坂城を描いた『大坂御城図』。時の将軍・徳川秀忠(ひでただ)は、豊臣秀吉が築いた城を埋め、その上に倍以上の規模を持つ巨大な城を造らせた(国立国会図書館蔵)

すべての時期に登場する彦根城は、当初大坂を警戒して西側に大手門を設けていましたが、この時期街道に近い南側に「表門」を新造して正面玄関を移しています。石田三成(いしだみつなり)の旧領であること、東西日本の境目で街道が集まっていることなど他とは違う特殊な拠点であり、政治的に抑えたかった城だったことがわかりますね。

諸大名が苦労して築いた天下普請の城、そして彼らが自領に技術を持ち帰って築いたたくさんの城は、誰の目にも分かりやすい支配拠点となり、家康が志した幕藩体制の確立を大いに助けました。そしてそれが、260年の泰平の世の礎となったのです。

これらの城を訪れた際は、ぜひ大名たちが造った石垣や堀をじっくり鑑賞してみてください。苦労した諸大名のボヤキがどこかからか聞こえてきそうですが…現代のわれわれが萌えポイント満載の近世城郭を見ることができるのは彼らのおかげ。築城技術を競い合い、世界に誇る城郭建築を造りあげた大名たちに感謝しながら、これからもお城めぐりを楽しみましょう!

名古屋城本丸、刻印石
 名古屋城や大阪城で見られる刻印石も天下普請のたまもの。多くの大名が関わる普請現場では石の盗難が相次いだため、防止策として石に印が刻まれたのだ。写真は名古屋城本丸の刻印石



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。


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