超入門! お城セミナー 第50回【鑑賞】天守には「黒」と「白」がある!?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは天守の色。各地に残る天守には「黒い天守」と「白い天守」があるって知ってますか? どちらの色も美しいですが、色の違いには何か意味があるのでしょうか? 



松本城、姫路城、天守
 漆黒の松本城天守(左)と純白の姫路城天守(右)。あなたはどちらが好き?

外壁の仕上げ方で変わる天守の色

城のシンボルである天守。その外観は城によって様々で、それぞれの違いを比較するのも城めぐりの醍醐味の1つです。本連載の第37回「天守ってどれも同じ形じゃないの?」では、天守は形によって2種類に分けられると解説しましたが、実は外壁の色でも、天守は大きく「下見板張(したみいたばり)」と「白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)」の2種類に分類することができます。

「下見板張」とは、漆喰で仕上げられた外壁の下部に、柿渋(かきしぶ)や黒漆を塗った板を重ねた「下見板」を張る仕上げ方です。下見板によって漆喰が守られるため、白漆喰総塗籠のような大修復は必要なくなります。有名な城だと、豊臣秀吉が築いた大坂城(大阪府)の天守が下見板張です。この天守は現存していませんが、『大坂の陣図屏風』では黒い外壁の天守が確認できます。

ちなみに、使う塗料によって色の美しさに差があり、黒漆を塗るとカラスの濡羽のような艶やかな黒になります。しかし、黒漆は高級な上に色の劣化が早いため、維持費を捻出できる天下人や大大名の居城にしか使用されませんでした。現存天守では松本城(長野県)が黒漆塗りで、天守では毎年漆の塗り替えが行われています。毎年の塗り直しとなると大変そうに聞こえますが、板を張り替える必要はないので工事期間は約2か月で済み、費用もさほどかからないそうです。

松本城大天守
 松本城大天守のアップ。艶のある黒い下見板は、こまめなメンテナンスによって維持されている

宇喜多秀家、岡山城、下見板張
 豊臣政権で五大老として重んじられた大大名・宇喜多秀家(うきたひでいえ)が築いた岡山城(岡山県)も下見板張。戦後に再建された復元天守は現代の塗料が使用されているが、創建時は黒漆塗りだったという

「白漆喰総塗籠」とは、天守の外壁を漆喰で塗り固めて仕上げたもので、全体的に白い外観となります。よく知られている城では、名古屋城(愛知県)や弘前城(青森県)などが白漆喰総塗籠です。耐火性に優れる上に美しい外壁は、慶長以降人気の外壁となりました。

しかし、漆喰は水分を素通ししてしまうため、定期的に塗り直さなければ内側の土壁が劣化してしまいます。2015年に姫路城(兵庫県)の大修理完了が話題になりましたが、この工事は約5年間の年月と約24億円の費用がかかっています。数十年に1度とはいえ、白漆喰総塗籠の維持には膨大な時間とコストがかかるのです。

白漆喰総塗籠、姫路城
 白漆喰総塗籠の代表格である姫路城は、屋根瓦の繋ぎ目にも漆喰が塗られている。天守の大修理では屋根の漆喰も塗り直され、「白鷺城(はくろじょう)」と称えられた美しい外観を取り戻した

国宝、彦根城、白漆喰総塗籠
 国宝天守の1つ・彦根城(滋賀県)も白漆喰総塗籠だ。ただし、彦根城天守はメンテナンスコスト削減のため、最下層に下見板が張られている

黒い天守=豊臣、白い天守=徳川という図式は正しいのか?

一昔前の城の解説本などでは、築城年代が古い天守はすべて「黒い天守」(下見板張)で、「白い天守」(白漆喰総塗籠)が登場したのは、現在の姫路城天守が造られた天下普請の頃からといわれていました。

しかし、豊臣秀吉が京都での居所とした聚楽第(じゅらくだい/京都府)を描いた『聚楽第図屏風』から、豊臣政権下で造られた聚楽第の天守が白漆喰総塗籠であることが判明。同じく秀吉が築いた肥前名護屋城(佐賀県)も屏風絵では白い天守として描かれていることから、現在では黒い天守と白い天守の登場時期にほとんど差はないと考えられています。

肥前名護屋城図屏風
 『肥前名護屋城図屏風』に描かれた肥前名護屋城天守。天守をはじめとする建物群は全て漆喰の白壁となっている(佐賀県立名護屋城博物館蔵)

また、かつては「天守の外壁の色は大名の派閥を表している。豊臣系大名の黒い天守に対抗して、徳川系の大名は白い天守を築くようになった」という説もよく目にしました。確かに、豊臣秀吉の子飼いである加藤清正の熊本城(熊本県)や、秀吉に長年仕えた堀尾吉晴(ほりおよしはる)が築いた松江城(島根県)は下見板張の城です。一方、徳川家康の天下普請で造られた名古屋城や姫路城の天守は漆喰総塗籠なので、この説は正しいように思われます。

名古屋城 
 天下普請で造られた名古屋城。城主は徳川家康の九男・義直(よしなお)だ。同時期に造られた徳川期大坂城や丹波亀山城(京都府)なども白い天守だった

しかし、熊本城の天守が完成した慶長5年(1600)、清正は徳川家康と親しくしており、直後に起きた関ヶ原の戦いでも東軍として動いていました。天守の色で派閥が決まるなら、家康派の清正は完成を遅らせてでも天守の外観を変更しているはずですよね。

また、落雷で天守を失い、幕末に再建を行った伊予松山城(愛媛県)は下見板張を採用。この時の松山城主は松平家なので、徳川将軍家の縁戚である大名が黒い天守を造ったということになります。

この2例を見るだけでも「黒い天守=豊臣、白い天守=徳川」の図式はあてにならないということがわかりますね。天守の築造年代や焼失した天守の研究が進んだこともあり、現在では天守の色が大名の派閥を表しているという説は否定されています。

伊予松山城、天守群
 伊予松山城の天守群。江戸時代の城主は松平家で、軒瓦には葵紋が使用されているが、外壁は下見板を採用している

天守の色から築城年代や築城主の派閥を単純に決めつけることは出来ません。しかし、城の歴史や地理などの要因も重ね合わせていくと、築城主がどのような意図でその天守をデザインしたのか、築城時にどのような事情を抱えていたのかを推察することができます。天守がある城を訪れたら、なぜその姿になったのかをぜひ考察してみてください。



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。


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