戦国10大合戦と城|小和田哲男 第5回 三方ヶ原の戦い

戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。第5回のテーマは、徳川家康が武田信玄に攻められ完敗を喫した「三方ヶ原の戦い」です。武田軍はどのようにして徳川軍を追い詰めたのか? また、なぜ信玄は家康の居城である浜松城まで進軍しなかったのか? 近年の研究で新たに浮上した説を交えながら、この戦いの行方と背景を見ていきましょう。

武田軍の進軍経路に新説

三方ヶ原の戦いというのは、元亀3年(1572)12月22日、武田信玄が三河・遠江2ヵ国を領する徳川家康を攻めた戦いで、信玄は家康の居城浜松城(静岡県浜松市中区)を落とすのは時間がかかると考え、城の北西の台地三方ヶ原に家康軍をおびき出し、破った戦いである。家康は家臣8000人の内、1割に当たる800人を失ったといわれ、文字通り、完膚なきまでの負け戦であった。

従来、このときの武田軍2万5000は、その年10月3日に甲斐の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県甲府市)を出陣し、信濃の高遠から天竜川筋を南下し、青崩峠および兵越(ひょうごし)峠を越えて遠江に攻め入ったとされてきた。ところが、最近、信玄本隊はこの天竜川ルートではなく、富士川沿いを南下し、駿河から大井川を越えて遠江に進攻したと考えられるようになった。武田側の出した禁制の場所を日付順にプロットしていくとそのような結論になり、現在では、信玄本隊は駿河から遠江に入ったとみられている。

高天神城
高天神城の全景

そうなると、高天神城(静岡県掛川市)の存在がクローズアップされることになる。これまでの説では、武田軍は掛川城(静岡県掛川市)も高天神城も攻めず浜松城に向かったとされてきたわけであるが、駿河から大井川を越えて遠江に入るルートだと、途中、掛川城か高天神城を攻めずに浜松城には向かえないことが明らかである。

掛川城
掛川城の空堀

そして、これまでは見過ごされてきた武田軍による高天神城攻めの史料の存在も明らかになってきた。それが、この年10月21日付、奥平定勝宛の信玄の書状(「武市通弘氏所蔵文書」『戦國遺文』武田氏編第3巻)で、高天神城主小笠原氏助が降伏してきたことを記している。高天神城での戦いが三方ヶ原前哨戦の一つとなっていたことがわかる。

別働隊の進軍経路と城

このように、信玄本隊は駿河経由で遠江に進攻したわけであるが、別働隊の方は天竜川筋を南下し、三河経由で遠江に入っている。この別働隊は山県昌景を大将とし、およそ5000の兵で三州街道(現在の国道153号線)を通って長篠城(愛知県新城市)に入り、次いで柿本城(新城市)を攻めている。このときの柿本城主は「井伊谷三人衆」の一人で家康方の鈴木重時で、城はまだ築城途中だったということもあり、5000の兵で攻められたのではひとたまりもなく、重時は降伏している。

仏坂古戦場のふろんぼ様
仏坂古戦場のふろんぼ様

山県昌景の軍勢はその勢いで三河・遠江国境を越えて遠江に攻め込み、仏坂(ほとけざか)の戦い、次いで伊平小屋(いだいらごや)城(浜松市北区)で徳川軍を撃破している。同年10月22日のことである。このとき、伊平小屋城の大手から山県昌景勢が、搦手から山家(やまが)三方衆の兵が攻めかかり、『鈴木家系譜』所収「鈴木氏系図」によると、大手を守っていた井伊飛驒守と鈴木権蔵の二人は山県隊の放った鉄砲にあたって討死したという。

三方ヶ原前哨戦としての二俣城の戦い

二俣城
二俣城の全景

一方、信玄本隊の方は、高天神城を落としたあと、磐田原台地を経由し、天竜川の東岸を北上し、二俣城(浜松市天竜区)攻めに向かっている。浜松城をいきなり攻めなかったのは、浜松城攻囲中に、浜松城の支城二俣城の城兵が後詰に出てこないようにするための作戦といわれている。

ところが、この二俣城攻めが意外に時間がかかってしまったのである。城攻め開始が10月20日で、従来は開城が12月19日といわれてきたが、最近の研究では11月晦日という。1ヵ月以上かかったことは明らかで、この二俣城攻めの最中に、山県昌景率いる別働隊もこれに合流している。

二俣城は天竜川を自然の堀とする天嶮の要害で、勝頼を大将とする武田軍も攻めあぐねた。そのとき、山県昌景と馬場信房の二人の重臣が、「無理攻めしても落とせる城ではない。水の手を壊せば落とせる」といって、水の手を壊す作戦に切り換えている。城の水の手が天竜川から直接水を汲みあげるものであることを知った武田側が、上流から筏を流し、その井楼を壊すことによって、ようやく水の手を絶つことに成功したという。結局、城を守っていた中根正照・青木又四郎らは降参し、城を出ている。

こうして、武田軍は別働隊も含めて2万5000の大軍でいよいよ浜松城の家康目がけて進軍することになるが、浜松城には向かわなかった。

武田軍が浜松城を攻めなかったのはなぜか

それは、冒頭に記したように、信玄が、「浜松城を落とすのに時間がかかる」と考えたからであるが、それが信玄の最初からの戦略だったかどうかはわからない。むしろ、支城の一つにすぎない二俣城を落とすのに1ヵ月以上かかってしまった経験から、「本城である浜松城を落とすのはもっと時間がかかりそうだ」とみて、戦術転換をしたのかもしれない。

というのは、信玄はこのころ、「来年5月、信長との雌雄を決する戦いをしたい」と、越前の朝倉義景に申し送っているからである。それが、その年11月19日付の「武田信玄条目」(「徳川黎明会所蔵文書」『戦國遺文』武田氏編第3巻)で、家康との戦いに早く決着をつけたいと考えていたことがわかる。

そのためには、籠城されて落とすのに時間がかかるのを避ける必要があり、城から外におびき出す戦術が一番ということになる。家康はそれに引っかかってしまったわけであるが、ただ引っかかってしまったわけではない。

それは、そのころ家康が置かれていた立場からもわかることで、このとき、おそらく信長からは「武田軍を遠江でくい止めろ」という秘密指令が出ていたものと思われる。家康と信長の同盟は、対等の同盟ではなく、信長が主君、家康は家臣ともいってよい主従関係に近い同盟だったことをみておく必要がある。家康は、このまま武田軍が遠江から三河、さらに西へ進軍していったとき、信長から何をいわれるか怖くなり、その恐怖心から浜松城を飛び出していったという側面もあったのではないかと思われる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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