2018/05/22
真田一族の城|平山優 第5回 本原の真田氏館跡を考察する(下)
大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者・平山優先生による「真田一族の城」をテーマとした講座。前回に引き続き、本原の真田氏の居館跡について考察。
武田時代の真田氏の歴史は、大きく分けて二つに区分できる。一つは、真田幸綱・信綱父子の時代であり、もう一つは真田昌幸の時代である。両者の決定的違いは、幸綱・信綱父子は武田氏に重用されながらも、あくまで信州先方衆筆頭という地位(外様)であり、岩櫃城や白井城を任されながらも、城将(城と城兵の軍事指揮官)という立場にとどまった。ところが昌幸は、武田一族武藤氏の養子となり、武田氏の重臣格(譜代)としての地位を確立しており、兄信綱戦死後はその格式のまま実家を相続した。そのため、真田氏の地位は格段に上昇し、昌幸は城将ではなく郡司(郡代)として岩櫃城(吾妻郡司)と沼田城(北上野郡司)を任され、軍事指揮権と行政権をあわせ持つ強い領域支配権を行使することとなった。
このことは、真田信綱の本原屋敷は、信州先方衆筆頭に躍り出たが、政治的地位や勢力の点で、天正期の弟昌幸には及ばぬ時期に築かれたことを念頭に置く必要があるだろう。しかし本原屋敷は、幸綱の山家屋敷よりも居館と城下の整備に強い計画性が認められる。
まず、その本原屋敷の立地は、大沢川の扇頂部に位置するとともに、戦国期に町場があった上原・下原が西側に展開しており、これらを結ぶ上州道と本原屋敷を結ぶ「立道」(館道)が整備された。また上州道は、下原→上原を経由し、真田郷を抜けて鳥居峠を越えるが、いっぽうで上原から「立道」に入り、途中分岐となり、左に曲がると真田氏本城跡下を経て真田郷に入り、通常の上州道と合流して鳥居峠に至るルートとなる。この「立道」経由の上州道は、本原屋敷の造営にあわせて整備されたのだろう。
つまり「立道」は、二つの町場と上州道を取り込むために造られたと推定される。また、上原には上原山広山寺が建立されたが、これは真田氏本城下の字十林寺にあった「十輪寺」を移転させたものである。後に、信綱夫人於北の菩提寺となった。寺伝によると、現在地への移転は、元亀3年(1572)であるといい、信綱家督の時期と重なる。
また「地籍図」をみると、本原屋敷の周囲には「立道」沿いに短冊型地割がいくつも認められ、さらに本原屋敷のある小字「御屋敷」に隣接して、小字「殿蔵院」があり、詳細ははっきりしないが寺院が存在していたようである。このことから、本原屋敷の周囲には、真田家臣の一部が居住する屋敷が置かれ、信綱に縁のある寺院も建てられたのではないだろうか。

このように本原屋敷は、真田信綱によって既存の町場を軸に、寺院、家臣屋敷などを計画的に移転、整備し、「立道」と上州道を有機的に結びつけることでこれらを取り込もうとしたとみられる。しかし、当主信綱が天正3年(1575)5月の長篠合戦で戦死したことにより、本原屋敷と周辺の整備はそれ以上進まなかったのだろう。
それを窺わせるデータがある。本原屋敷は、史跡整備に伴い1990~1991年にかけて発掘調査が実施された。残念なことに、皇太神社が鎮座する本郭には調査の手は入らなかった。そのため、信綱らが生活していたであろう区域の状況は未解明のままである。そして、調査が行われた大手口、搦手口では土塁の根石などが検出されたが、門跡の痕跡は攪乱のため判明しなかった。また厩跡、西側の郭ともに建物の痕跡は検出されていない。ただ、屋敷内の水はけをよくするために排水施設と推定される水路状石積遺構が検出されている。そのため、現状では長期間、利用された生活の痕跡が認められないのだ。
また、発掘された遺物も極めて少なく、本原屋敷成立の決め手となるような遺物は発見されなかった。しかも、輸入陶磁器のような威信材はまったく検出されていないため、真田昌幸が上田築城とともに持ち出したのではないかと発掘調査報告書は推定している。
しかし、近年指摘されているように、真田幸綱時代は山家屋敷に本拠があったのであり、本原屋敷は信綱の本拠とみてほぼ間違いなかろう。地元の伝承では、この屋敷には女性が一人で住んでいたのだという。これに該当する女性は、信綱未亡人於北様(花翁妙永大禅尼)であろう。彼女は、夫信綱戦死の5年後の天正8年(1580)2月10日に死去し、広山寺に葬られた。つまり、本原屋敷が運用されたのは、元亀初年(さかのぼっても永禄末期)から天正8年までの十余年ほどでしかなかった可能性が高く、遺構や遺物の希少性も短期間で廃止されたことと関係あるのではないだろうか。

広山寺にある御北塚(信綱未亡人墓所)(提供:上田市真田地域教育事務所)
恐らく、真田昌幸はこの本原屋敷を使用していない。その理由は、近年の真田氏研究が指摘するように、昌幸は庶流であったにも関わらず、武田勝頼の命令により真田家を相続することになったことにある。ところが、信綱・於北夫妻の間には、幼少ながらも真田与右衛門という息子がいたとされ、そのため幸綱・信綱宛の武田氏発給文書など、真田家の「家伝文書」を昌幸が継承することはなかった。これは、明治維新まで信綱の子孫(それが断絶すると、信綱の弟昌輝の子孫)が引き継いだ。このことは、昌幸の真田家相続の正当性にもかかわる問題であった。そこで武田勝頼は、信綱・於北夫妻の間に出生した息女(清音院殿)を、昌幸の嫡男信之に娶せ、惣領系(信綱系)と庶流(昌幸系)の家系を、信之・清音院殿夫妻の子息の段階で一本化しようとしたのである。
こうしてみると、「家伝文書」すら継承できない真田昌幸が、惣領信綱の遺族が住まう本原屋敷を引き継ぐことは不可能だったとみるべきだろう。では、昌幸は真田領のどこに拠点を置いたのか。天正期の昌幸の動向をみると、伊勢山に拠点を置いていたことが史料にみえる。この伊勢山とは、砥石城のことである。興味深いのは、『加沢記』をみると、真田信之は砥石城で誕生したのだという。事実かどうかは確認出来ないが、近世初期の真田家にそのような伝承があったのだろう。
真田昌幸は、家督相続後、通常は城代を務めた岩櫃城を拠点にしつつも、真田領の経営にあたっては、砥石城を本拠にしていたとみられる。その場所は、砥石城下の内小屋(城将の屋敷)と推定される。
このように、本原屋敷は、真田信綱の家督継承を契機に築かれ、周辺の整備が行われたが、信綱戦死後、於北未亡人と二人の子息が生活する場となり、真田氏の本拠としての地位は失われた。そして天正8年2月の於北未亡人の死去により、二人の子息は真田昌幸に引き取られ、本原屋敷は廃絶したと推定される。その運用期間は、わずか十余年に過ぎなかった。
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平山優(ひらやまゆう)
歴史学者
1964年生。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。
著書 『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(吉川弘文館)
『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)
『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)
『山本勘助』(講談社)
『真田三代』(PHP研究所)ほか多数









