2018/07/18
昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第5回 【綾城】ハンドメイド天守の謎を追え
昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。今回は宮崎県にある綾城を取り上げる。台地に建つ見事な木造天守は築30年!?
まるで戦国の世から抜け出した風情の綾城
築30年でも戦国の雰囲気が漂う城
日本最大級の照葉樹林を有する町「綾町」。宮崎県のほぼ中央に位置するこの地区は、総面積の約80%が森林で占められており、綾南川、綾北川の二つの河川に囲まれた山紫水明の地である。
綾町は全国に先駆けた有機農業の推進、照葉樹林保護や復元を目的とした「綾の照葉樹林プロジェクト」などの取り組みが世界的に高い評価を受け、自然と人間社会の共生を目的とした生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)に登録されている(ちなみに綾町を含め日本全国で7か所が登録)。
そんな自然豊かな綾の地に、いかにも古城然と台地の上から綾の町を見下ろしている城がある。2層の建物の上に物見櫓が付いた外観はすべて木造で、その姿はいかにも戦国時代の城を彷彿とさせる。城の名前は綾城。今回紹介する城である。
綾という名前には古風な響きがあり、なにより城の佇まいが渋い。とても雰囲気のある城である。ただ、はじめに断っておくが、この城が建てられたのは昭和60年(1985)。今より30年と少し前の話である。
その割に「いかにも」といった雰囲気を醸し出しているのはなぜだろうか。
正面から見た綾城の外観。いい味を出している(綾町観光協会提供)
城は自然との共生の証
綾城跡に天守を建てる計画は、町おこしの一環としてはじまった。耕地面積が少ない綾町では林業が生み出す雇用を主としていたが、戦後の機械化で雇用は減少、集団就職などで町の人口は減る一方だった。そんな中、国から照葉樹林伐採計画が持ち上がる。
森を切り拓いて利益を取るか、自然を残して共存の道を選ぶか。悩んだ末に当時の町長は自然との共存の道を選択。反対運動を起こし、町民もそれに賛同。伐採反対の署名を集めて国に直訴し、計画は中止となる。
こうして守られた照葉樹林は、町の「観光資源」となり、町おこし運動に繋がっていく。昭和59年(1984)には、当時日本一の高さを誇った「綾の照葉大吊橋」が架けられ、翌年に綾城の建築が始まる。
ただ、南北朝時代に城が築かれてから約680年の歴史を誇る綾城ではあったが、天守が建っていたという記録がない。そのため、築城にあたっては日本城郭協会に考察を依頼。協会の創始者である故・井上宗和氏が考証を担当することになった。
綾城内部は歴史資料館になっている。(綾町観光協会提供)
模擬の天守を建てるとはいえ、さすが城郭協会を立ち上げた人物である。戦国時代の天守創造を試みたのだ。考証に考証を重ね、天守の創生期にあったと思われる形を模索。御殿建築の上に望楼(物見櫓)を乗せたタイプの天守を設計した。このことで、綾城は昭和の建築ながら戦国時代に建てられた雰囲気を持つ城となる。
また、城の素材はすべて町内から集められた。主に柱は「ツガ」、入口は「ケヤキ」、階段は「サクラ」、物見櫓は「ユス」、その他「ヒノキ」や「スギ」といった綾産の木材で城がつくられているのだ。
内部は歴史資料館になっているものの、木造建築なので内部構造は現存している犬山城などの木造天守とさして変わらない。最上階の回廊も木の手すりが付けられて外に出ることができ、眺めもよい。
今では年間100万人の観光客が訪れる綾町。自然と共存した町のシンボルとして綾城は今日も町を見下ろしている。
綾城(宮崎県綾町)
綾城は日向の戦国大名伊東氏の城で、伊東48城のひとつ。伊東氏滅亡後は島津氏の支城となり、一国一城令により廃城となった。築城は元弘年間(1331〜1334)に足利尊氏の家臣細川小四郎義門が下向し、その子が綾に居館を築いて綾氏を称した頃と考えられている。
執筆/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。