城と光秀|小和田哲男 第5回 「金ヶ崎退き口」と光秀

本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公としてその人生が描かれました。『麒麟がくる』の時代考証を担当される小和田哲男先生による連載「城と光秀」の第5回目では、秀吉の武勇伝として語り継がれる「金ヶ崎の退き口」について解説します。(※2019年6月5日初回公開)

織田信長の越前攻めと撤退

足利義昭・細川藤孝主従は、明智光秀の働きにより、越前の朝倉義景のもとから、美濃の織田信長のもとに身柄を移した。信長にしてみれば、足利義昭を擁して上洛するという大義名分を得たことになる。早速、永禄11年(1568)9月7日、自ら4万とも6万ともいわれる大軍を率いて岐阜城を出陣した信長は、26日、義昭を奉じて入京に成功し、10月18日、義昭は征夷大将軍に補任されている。

光秀は、その後、京都奉行などを務め、信長と義昭に両属する形だったが、やがて、信長・義昭が対立しはじめ、ついに信長は、裏で義昭に通じている朝倉討伐に動く。これが元亀元年(1570)4月の越前朝倉攻めである。4月25日、越前敦賀の天筒山(てづつやま)城(手筒山城とも書く、福井県敦賀市)を攻め、『信長公記』によれば、朝倉方の兵1370が討ち取られたという。翌26日、天筒山城と地続きの金ヶ崎(かねがさき)城を攻め、城を守っていた朝倉一族の朝倉景恒は城を明け渡し、後退している。

金ヶ崎城全景
金ヶ崎城全景

信長がさらに木ノ芽峠を越えようとしたとき、信長が全く予期していなかったことがおこった。妹婿である北近江の浅井長政が離反したというのである。その第一報を受け取ったときの信長の言葉が『信長公記』にみえるが、それは、「浅井は歴然御縁者たるの上、剰(あまつさへ)江北一円に仰付けらるゝの間、不足あるべからざるの条、虚説たるべき」というものであった。妹を嫁がせている浅井長政が裏切るはずはないと考えていたことがわかる。

しかし、次つぎに入ってくる情報により、謀反は疑いないということになり、急遽、撤退を決めている。前に朝倉、後に浅井で挟み撃ちにされることが目にみえていたからである。『信長公記』はその続きで、「金か崎の城には木下藤吉郎残しをかせられ……」と、殿(しんがり)を任せたのを秀吉としている。そのため、後世、「藤吉郎金ヶ崎の退(の)き口」として、秀吉の武勇伝として語り伝えられることになる。

秀吉だけではなかった「金ヶ崎の退き口」

ところが、実は、この「金ヶ崎の退き口」は秀吉だけではなかったのである。元亀元年と推定される5月4日付の波多野秀治宛一色藤長書状(「武家雲箋(うんさん)」所収文書)に、「金ヶ崎城に木藤・明十・池筑その外残し置かれ」と記されているのである。木藤は木下藤吉郎で、秀吉のこと、明十は明智十兵衛尉で、光秀、そして池筑は池田筑後守で、勝正のことである。つまり、信長が金ヶ崎城に殿として残したのは、木下秀吉・明智光秀・池田勝正の三人だったことが明らかである。

では、なぜ、『信長公記』の著者太田牛一は、「金ヶ崎の退き口」を秀吉一人の手柄として記したのだろうか。そこには、どうやら、「歴史は勝者が書く勝者の歴史」という側面があったように思われる。

周知のように、このあと、光秀は天正10年(1582)6月2日の本能寺の変で織田信長を討ったものの、その後の山崎の戦いで秀吉に敗れ、命を落としており、池田勝正も、その後、信長の手を離れ、三好三人衆側に通じ、歴史の表舞台から姿を消しているのである。結局、一人勝ち残った秀吉が手柄を独り占めした形となった。

そのため、実際に、この三人がどのように朝倉軍の追撃を金ヶ崎城で防いだのかはわからない。しかも、金ヶ崎城と天筒山城と二つの城としているが、実際は山続きとなっていて分けることがむずかしいともいわれている。たしかに、比高も天筒山城の方が高く、城域の規模も天筒山城の方が広いので、「金ヶ崎退き口」とはいっているが、天筒山城の方も防衛ラインとして使われた可能性はあるように思われる。

金ヶ崎城には一の木戸・二の木戸・三の木戸とよばれる場所があり、そこにはその名前の通り、木戸(城戸)があったのであろう。それら木戸で朝倉軍の追撃を光秀らが防いだのではなかろうか。

金ヶ崎城、三の木戸址
金ヶ崎城三の木戸址

本丸とよばれているところが「月見御殿」といわれている。戦闘のあった城にふさわしくない名称だが、そこからの見晴らしは抜群で、本来、そこに着見櫓があったものと思われる。着見が月見に転訛した可能性はありそうである。

▶第6回「宇佐山城から坂本城へ」はこちら
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数