城と光秀|小和田哲男 第5回 「金ヶ崎退き口」と光秀

足利義昭・細川藤孝主従は、明智光秀の働きにより、越前の朝倉義景のもとから、美濃の織田信長のもとに身柄を移した。信長にしてみれば、足利義昭を擁して上洛するという大義名分を得たことになる。早速、永禄11年(1568)9月7日、自ら4万とも6万ともいわれる大軍を率いて岐阜城を出陣した信長は、26日、義昭を奉じて入京に成功し、10月18日、義昭は征夷大将軍に補任されている。光秀は、その後、京都奉行などを務め、信長と義昭に両属する形だったが、やがて、信長・義昭が対立しはじめ、ついに信長は、裏で義昭に通じている朝倉討伐に動く。これが元亀元年(1570)4月の越前朝倉攻めである。

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