2022/07/20
戦国10大合戦と城|小和田哲男 第4回 賤ヶ岳の戦い
戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。第4回のテーマは、本能寺の変の翌年、織田信長の家臣だった羽柴秀吉と柴田勝家の間で起きた「賤ヶ岳の戦い」です。実はこの戦いは、両軍が敵を牽制するために多くの陣城を築いた「築城合戦」でもありました。両軍が構えた城や砦に注目しながら、信長の後継者を決めた一戦の行方を見ていきましょう。
戦いは秀吉の長浜城攻めからはじまる
賤ヶ岳の戦いそのものは天正11年(1583)4月21日のことであるが、戦いはその前年からはじまっていた。前年、すなわち天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の後、織田家の家督問題と遺領問題をめぐって清洲会議が開かれ、織田家の家督は信長の長男信忠の子三法師に決まり、羽柴秀吉は自らの所領だった北近江と、居城長浜城(滋賀県長浜市)を柴田勝家に譲っていた。
ところが、その年も押しせまった12月7日、秀吉が5万の大軍で長浜城を攻めはじめたのである。勝家の居城越前北庄城(福井県福井市)が雪で埋もれ、大軍を動かすことができないことを見込んでの軍事行動であった。このとき、長浜城を守っていたのは勝家の甥にあたる柴田勝豊であったが、勝豊は秀吉の説得を受け、戦わずに降伏している。「人たらしの天才」などといわれる秀吉の面目躍如といったところである。
この時点で、勝家は滝川一益と結び、信長の三男信孝の擁立を考えていたが、その一益が天正11年正月に伊勢で動きはじめた。伊勢亀山城(三重県亀山市)を奪い、鈴鹿口を固めて備えを強固にしはじめた。

秀吉軍が攻めた伊勢峰城
この伊勢における異変を知った秀吉は、そのころ播磨の姫路城(兵庫県姫路市)にいたが、急遽兵をまとめて伊勢に出陣している。これは勝家の作戦だったらしく、秀吉が伊勢で滝川一益と対陣しているときをねらって自らも出陣し、秀吉を挟み撃ちにしようとしたものである。
柴田側の玄蕃尾城と諸砦の構築
勝家は雪解けを待っていたかのように3月3日、佐久間盛政らを先鋒として北庄城を出発させ、勝家自身も10日には北近江の柳ヶ瀬(滋賀県長浜市余呉町)の玄蕃尾城に入った。この名称は、佐久間玄蕃盛政に由来するが、実際に入ったのは勝家本人だった。俄造りの陣城というイメージがあるが、本格的な城で、これは、秀吉が前年、山城に山崎城(京都府乙訓郡)を築きはじめたのをみた勝家が、その対抗上築いたのではないかと考えられている。
その佐久間盛政本人は行市山(ぎょういちやま)に、前田利家が別所山に、不破勝光が大谷山というようにそれぞれ陣所を築いて布陣し、さらに、竹が鼻砦・椿井(つばい)砦・集福寺口砦などを築いていた。

田上山から玄蕃尾城方面を望む
一方の秀吉側も、左禰山(さねやま)に堀秀政、田上山に羽柴秀長、大岩山に中川清秀、岩崎山に高山右近、賤ヶ岳に桑山重晴を置いて守りを固めていた。賤ヶ岳の戦いは、ある意味、築城合戦の様相を呈していたのである。
秀吉は3月17日に木之本に到着し、東野山と堂木山を結ぶラインを防衛線とし、4月3日付の秀長宛秀吉書状(「長浜城歴史博物館所蔵文書」)によると、「惣構の堀より外へ鉄炮放候事ハ申すに及ばず、草かりふぜいニ至るまで一人も出す間敷(まじき)事」と指示されていたことがわかる。
大岩山砦の陥落と秀吉の「美濃大返し」
対陣はしばらく続いたが、秀吉が主力を率いて岐阜城(岐阜市)の織田信孝攻めに大垣まで出ていったのを好機到来とみた佐久間盛政が、4月20日未明、余呉湖の西を大きく迂回し、大岩山砦の中川清秀に奇襲をかけ、それを落とすことに成功した。
緒戦の勝利に気をよくした盛政は、続いて岩崎山砦の高山右近にも戦いを仕掛けている。右近は、守りきれないとみて撤退しており、柴田軍有利の展開となった。勝家は盛政に「あまり深追いすると危険だ」と、兵をもどすよう命じたが、盛政は盛政で、秀吉の主力軍がいない間に秀吉側の砦を一つでも多く落としておこうと考え、勝家の勧告には従わなかった。そして、結果的には、そのことが裏目に出てしまうのである。
大垣に滞陣中の秀吉のもとに、大岩山・岩崎山の2つの砦陥落の報告が4月20日の何時ころ届けられたかはわからない。ただ、各種史料を総合すると、午後4時ごろには木之本に向けて兵をもどしはじめたというので、その少し前のことではないかと思われる。
『太閤記』などでは、このときの秀吉の軍勢を10万としているが、それは誇張で、せいぜい半分の5万くらいではないかといわれている。それに対する勝家の軍勢も3万とされているが、実際は2万ほどであった。その5万の秀吉軍の内、1万5000ほどが大垣まで進んでいたといわれている。
ここから「中国大返し」ならぬ「美濃大返し」がはじまる。大垣から木之本までは距離にしておよそ52kmである。午後4時ごろに出発した秀吉軍1万5000は、その日の夜、午後9時ごろには木之本に到着したという。
結局は、このスピードが秀吉軍の勝因となるわけであるが、北国脇往還沿いに松明を用意し、水やおにぎりを用意させたといわれている。また、伝承ではあるが、このとき、兵たちは武具をもたず、甲冑も身につけず、身一つで走ったという。武具・甲冑は長浜城から運ばせていて、木之本に到着して、武具をもち、甲冑を着て戦いに臨んだ可能性もある。
52kmをわずか5時間で駆けぬけるなどまさに神業といってよいが、秀吉は、1万5000の兵が木之本に到着し、少し休ませただけで出陣命令を下している。

賤ヶ岳の山頂
時間の流れでみると、賤ヶ岳で戦いがはじまったのは日付が変わった4月21日の午前2時ごろと考えられる。まさに夜戦である。佐久間盛政が、勝家の勧告にもかかわらず、兵を引こうとしなかったのは、「いかに秀吉でも、すぐ兵をもどすことはできないはず」といった読みがあったからである。
戦いは、秀吉の近習衆が佐久間盛政隊の殿(しんがり)柴田勝政隊をとらえ、そこで戦いとなった。それが「賤ヶ岳の七本槍」というわけで、福島正則・加藤清正・脇坂安治・平野長泰・加藤嘉明・片桐且元・糟屋武則の7人である。もっとも、大村由己の著した『柴田合戦記』には、その7人の他に桜井佐吉と石河(いしこ)兵助の2人も入っていて、本当は「九本槍」だったものが「七本槍」として喧伝されることになった。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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