2021/08/31
明智光秀とその周辺|小和田哲男 第4回 朝倉義景家臣時代の光秀の屋敷
本能寺の変で織田信長を討った武将として知られ、2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で主人公として描かれた明智光秀。連載講座「明智光秀とその周辺」では、ドラマの時代考証を担当される小和田哲男先生が、光秀の生涯に影響を与えた人々や出来事に全12回でスポットライトを当てていきます。第4回は、弘治2年(1556)の明智城の戦いで美濃を脱出した光秀の足取りを、残された史料からたどります。(※2020年7月22日初回公開)



「明智光秀とその周辺|小和田哲男」
越前で光秀は何をしていたか
明智城(岐阜県)を脱出したあと、明智光秀はどこに向かったのだろうか。江戸時代に書かれた『明智軍記』には、各地を武者修行して歩いたと書かれているが、そこに出てくる城下町が光秀時代の場所ではなかったところが多く、そのままには信用できない。『武功雑記』に、三河の牛久保城主牧野右京大夫に仕えたと出てきており、明智城のあった東美濃と三河は近接しているので、その可能性はあったかもしれない。
ただ、同時代の人が書いた史料によると、光秀はすぐ越前に向かったようである。その史料というのが「遊行三十一祖京畿御修行記」で、そこに、「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」とみえる。

光秀が門前に10年間居住していたとされる長崎称念寺(復旧工事中の2019年11月撮影)
長崎称念寺というのは、現在、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の称念寺のことで、その門前に10年間居住していたというのである。「越前朝倉義景を頼み申され」とあるが、仕えたとは書いていない。つまり、光秀は10年間、そこで牢人生活を送っていたことになる。
弘治2年(1556)に光秀が美濃からすぐ越前に逃れてきたとすれば、その10年後は永禄9年(1566)となる。そのころ、光秀はすでに結婚していて、女の子2人も生まれており、牢人といっても、何もしないでは食べていけるわけがない。そこで、今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では寺子屋の先生のようなことをやっていたという形にしているが、早島大祐氏はその著書『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』で、そのタイトルにあるように、医師をやっていたとする。たしかに漢方薬の知識をもっていたらしいことは史料から明らかであるが、医師をしていたというのは疑問である。
朝倉義景に仕官する光秀
私は、永禄9年の段階では、光秀が朝倉義景に仕えていたのではないかと考えている。そのように考えた根拠が朝倉氏累代の居城である一乗谷の近くにある光秀屋敷の存在である。現在、福井市東大味町に明智神社という小さな祠があり、そのあたり「あけっつぁま」とよばれている。

光秀の屋敷跡と伝わる場所に建立された明智神社
それは単なる伝承ではなく、『越前国古城跡并館屋敷蹟』足羽郡之分に次のように記されていることからも明らかである。
一屋敷跡 三ヶ所
朝倉家 中村但馬
明智日向守
今井新兵衛
東大味村之内四十四間三十六間計之所、二十貳間計四方之所、十六間ニ十二間計之所有、自福井三里計
光秀の屋敷が朝倉氏の城下町である一乗谷の中ではなく、外の東大味というところに置かれた理由を河合千秋編『福井県の伝承』では、「光秀は美濃の人である。朝倉義景はその非凡の才を認めたが、元より譜代の臣ではないので心安からず、客分の待遇をして山越えてこゝの関を守らせたのである」としている。存外そんなところが真相かもしれない。
そして、光秀が朝倉義景に仕官したちょうどそのころ、足利義昭が義景を頼って越前に転がりこんでくるのである。義昭が細川藤孝らを伴って若狭から越前の敦賀に入ったのが永禄9年9月8日のことである。さらにそのおよそ1年2ヵ月後、義昭は一乗谷に移っている。おそらく、そこで、光秀は義昭・藤孝主従と会ったものと思われる。これは私の全くの推測であるが、藤孝が朝倉家臣に明智苗字の者がいることに気がつき、光秀に、「もしや、幕府奉公衆明智家の者か」と声をかけたのかもしれない。このあと、光秀が藤孝の意をうけて織田信長との連絡役を務めることになる。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数









