2018/04/25
真田一族の城|平山優 第4回 本原の真田氏館跡を考察する(上)
大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者・平山優先生による「真田一族の城」をテーマとした講座。今回は、本原にある真田氏の居館跡について考察します。
前回まで縷々説明してきたように、真田幸綱は、真田右馬允綱吉の実弟で、惣領ではなかったにもかかわらず、武田信玄の信頼を勝ち取り、兄綱吉を差し置く形で真田氏の事実上の当主となり、村上義清没落後は本領真田を与えられることになった。そのため、かつての真田氏の居館があった松尾城下の日向畑屋敷は再興されず、真田郷の山家屋敷が造営されたわけである。しかし、真田氏の居館跡は、もうひとつ本原に伝えられており、小字「御屋敷」に巨大な土塁に囲繞され、今も偉容を誇っている。

この本原の「御屋敷」(現在の御屋敷公園、真田氏館跡、長野県史跡)は、東西約150~160m、南北約130~80mを測る規模で、台形の形態を残す館跡である。これは、東南隅が館の虎口(出入口)が設置されていることから、隅が切られていることに由来する。館の南側に大手口と呼ばれる虎口があり、入口が枡形になっている。いっぽう、搦手口には枡形が築かれた痕跡が現状では認められない。
今回は、この「御屋敷」(以下、本原屋敷と呼称)について紹介、検討しよう。真田郷は、東(上野・信濃国境の山側)から西(神川)に向かって傾斜面が続く地形であるため、本原屋敷もまた、東側の空堀の外は標高約770m、屋敷内部の東側に鎮座する皇太神宮(神明宮)付近が標高765m、大手口と搦手口を結ぶ小道の西側が標高750m、西側の土塁外が標高755mであり、屋敷の東隅から西隅までのわずか160mの間で、おおよそ15mもの落差があることがわかる。そのため、郭内は土塁による区画こそないが、東側(現在の皇太神社の敷地)が一段高く、西側との段差が顕著である。
また、北西の隅には、土塁の内側に一段さらに低い場所があり、「御厩屋跡」との伝承がある。空堀跡は、東側にしか痕跡がないが、西側や南側にもかつて存在していたことが確認されている。なお、搦手口にあたる北側には、大沢川が流れており、これが天然の堀になっていたとみられる。また、本原屋敷の北東から南側に沿うように、涌水があり、これも堀の役割を果たしていたとみてよかろう。
この他に、館跡の内郭東側に鎮座する皇太神社(神明宮、伊勢神宮内宮を総本社とする神社)は、真田氏がこの館を造営した際に勧請された屋敷神がそのもとではないかと考える。というのも、真田氏は白山信仰だけでなく、伊勢神宮をも信仰し、御師広田大夫とは檀家として関係が深かった。そればかりか、広田大夫を通じて、第一次上田合戦直前には、羽柴秀吉との通交を実現したこともある。白山信仰の強い真田郷一帯において、神明宮が館跡の内郭に残されているのは、戦国期の真田氏館跡創建時にさかのぼる由緒を持つと推定できるのではないだろうか。
本原屋敷は、真田郷の平場ではもっとも高い位置にあり、周囲を広く俯瞰できる絶好の場所である。砥石城跡は、指呼の間だ。本原屋敷は、規模は同じ小県郡の国衆浦野氏の館跡とほぼ同規模であり、目立って巨大というわけではないが、浦野氏館に匹敵する規模の館を築き、維持しうる実力を真田氏が保持していたということは重要である。そして、この館を築いたとされるのが、真田源太左衛門尉信綱(幸綱の嫡男、昌幸の兄)である。もちろん、これも確実が史料によって裏づけられているわけではないが、真田郷に所在し、遺構の規模も大きく、真田信綱に縁の寺院の存在などから、そう認定してよかろう。

真田氏館跡図(御屋敷・『上田小県誌』第1巻)(出典:『真田町誌』歴史編上、提供:上田市真田地域教育事務所)
では、この本原屋敷はいつごろ築かれたのであろうか。ここに真田信綱が居館を築いたとするならば、彼が父幸綱の跡を継いだことが契機であると容易に想像がつく。つまり、父の山家屋敷を廃して、信綱がここに本拠を移転させたとみるのが自然である。
ところで、真田幸綱は、本領回復後、砥石城→尼飾城(東条城、長野市)→鎌原城(群馬県嬬恋村)→岩下城(東吾妻町)→倉賀野城(高崎市)→岩櫃城(東吾妻町)→白井城(渋川市)などを転戦しており、永禄8年には岩櫃城への在城を武田信玄より命じられ、同年末から永禄9年初頭にかけて出家し、真田一徳斎幸隆と称した。そして、史料をみる限り、真田一徳斎は、永禄12年から元亀元年ごろに正式に隠居し、実権を嫡男源太左衛門尉信綱に譲ったと推定される。なぜなら、それまで真田一徳斎・源太左衛門尉両名宛であった武田氏の文書が、信綱単独に移行し、一徳斎の活動が確認できなくなるからである。
しかし、真田一徳斎は真田郷の山家屋敷に隠棲したのではなく、その後もずっと岩櫃城に居住し続けていたらしく、天正2年に病没したのも同所であった。それは高天神城包囲中の武田勝頼が、真田信綱に宛てたと推定される書状から推定できる。勝頼書状によると、①真田一徳斎の病状を憂慮した勝頼が、医師僥倖斎宗慶を派遣していること、②一徳斎の看護を真田信綱が担っていること(つまり僥倖軒は信綱のもとにいる一徳斎の診察と手当てのため派遣されたことになる)、③しかしこの書状を出した時に、すでに一徳斎は薬石の効なく死去した、ことが読みとれる。そして信綱は当時、岩櫃城に在城していたのであるから、一徳斎の死没地は同城であろう。
こうしてみると、真田幸綱(一徳斎幸隆)は山家屋敷にはほとんど帰ってはいなかったと思われ、家督を信綱に譲った後も、信玄・勝頼の依頼により息子信綱を補佐して、岩櫃城に在城し、上杉謙信の動向を監視していたのだろう。こうした理由もあって、山家屋敷はほとんど目立たぬまま廃止となり、信綱が新たに本原に屋敷を構えたのではなかろうか。さすれば、本原屋敷の成立は、元亀元年を起点とした前後数年間と考えられる。そして、当時信綱は200騎(300騎とも)の兵力を引率し、実弟真田昌輝の50騎を合わせると、250もしくは350騎に及ぶ、「信州先方衆」筆頭の軍事力と経済力を誇っていた。
真田氏の本領は、武田氏従属以前は、真田・横沢・大日向・横尾・上原・中原・下原の七ヵ村であったといわれ、このうち近世以前は、真田・横沢・大日向が一村で甲石村といったとされ、また上原・中原・下原も一村で原之郷であったという(但し、甲石村は近世前期以前の史料にはみえず、真田を中心とした郷村であった可能性が高い)。そこで、真田、横尾、原之郷の貫高を調査してみると、仙石氏が作成した「上田御領分惣貫高寄帳」には、真田は六二六貫文余、横尾は三八四貫文余、本原(原之郷)は六三一貫文余の計一六四一貫文余であり、国衆としては比較的小規模だったと推定されるが、武田氏より与えられた新恩地は、本領を越える規模であったと思われ(史料に残っているだけでも、本領と同規模の所領を各地で与えられていたことが判明している)、信濃国衆(先方衆)では傑出した経済力と軍事力を備えるまでに成長していたのだろう。『真武内伝』によると、真田昌幸が真田氏を相続した際の知行高は、一万五〇〇〇貫文であったという。これは芦田依田信蕃よりも大きい(芦田依田氏は、一万貫文といわれる)。
つまり本原屋敷は、岩櫃・白井城将として、上野での防備を担った真田氏の、永禄末・元亀年間までの勢力を偲ぶことができる貴重な遺跡ということができる。
▶「真田一族の城」その他の講座はこちら
平山優(ひらやまゆう)
歴史学者
1964年生。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編纂室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、現在、山梨県立中央高等学校教諭。2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。
著書 『武田信玄』『長篠合纖と武田勝頼』(吉川弘文館)
『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)
『天正壬午の乱[増補改訂版]』(戎光祥出版)
『山本勘助』(講談社)
『真田三代』(PHP研究所)ほか多数









