城と光秀|小和田哲男 第4回 光秀が仕えた朝倉氏の一乗谷

道三・義龍父子が戦った弘治2年(1556)の長良川の戦いに、光秀が道三方に加わった形跡はなく、義龍方に加わった形跡もない。どうやら光秀は中立の立場であったらしい。道三の近習までつとめたはずの光秀が道三に加担しなかった理由はわからない。長良川の戦いのとき、道三側は2700、義龍側は1万7000といわれる大軍だったので、光秀としては、道三に勝ち目はないとみたのかもしれない。しかし、勝った義龍としてみれば、味方をしてこない光秀は敵と考えた。『美濃国諸旧記』によると、同年9月、義龍は家臣の長井隼人正道利らに光秀の明智城を攻めさせたという。

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