城と光秀|小和田哲男 第4回 光秀が仕えた朝倉氏の一乗谷

本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、主人公としてその人生が描かれました。「麒麟がくる」の時代考証を担当される小和田哲男先生の「城と光秀」第4回目では、長良川の戦いのあと光秀がなぜ越前へ向かったのか、そして光秀の居住地はどこだったのかを解説します。(※2019年4月9日初回公開)

越前に向かったのはどうしてか

道三・義龍父子が戦った弘治2年(1556)の長良川の戦いに、光秀が道三方に加わった形跡はなく、義龍方に加わった形跡もない。どうやら光秀は中立の立場であったらしい。道三の近習までつとめたはずの光秀が道三に加担しなかった理由はわからない。長良川の戦いのとき、道三側は2700、義龍側は1万7000といわれる大軍だったので、光秀としては、道三に勝ち目はないとみたのかもしれない。

しかし、勝った義龍としてみれば、味方をしてこない光秀は敵と考えた。『美濃国諸旧記』によると、同年9月、義龍は家臣の長井隼人正道利らに光秀の明智城を攻めさせたという。このとき、城を守っていたのは光秀の叔父にあたる光安(宗宿または宗寂)で、光安の勧めによって光秀は城を脱出している。そして向かった先が越前であった。

なぜ越前に向かったのかは書かれたものがなくわからないが、当時、美濃と越前は行き来が頻繁だった。土岐頼武・頼純父子が、斎藤道三に逐われ、しばしば越前の朝倉氏を頼っていることからもそれはうかがわれる。

『明智軍記』は、光秀が諸国を武者修行した末、越前の朝倉義景に仕え、500貫の知行を与えられ、鉄砲寄子100人を預けられたとするが、武者修行の話は信用できず、また、すぐ500貫というのも疑問で、良質の史料にはそれとは異なるいきさつがあったことがわかる。

その良質の史料というのが「遊行三十一祖京畿修行記」である。これは、時宗の僧同念が、天正8年(1580)に奈良遊行を希望したとき、光秀を通じて筒井順慶への取り成しを頼んだ梵阿(ぼんあ)という僧が、光秀と旧知の間柄だったことを説明したくだりで、そこに、「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ケ年居住」と記されている。

惟任は光秀が織田信長から与えられた姓で、いうまでもなく光秀のことである。長崎称念寺は、現在の福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺のことで、光秀がそこに10年居住していたという。そこで光秀が何をしていたかはわからないが、朝倉氏の城下町一乗谷ではなかったことは確かで、その後、朝倉義景に仕官したものと思われる。

朝倉館とは離れていた光秀の居住地

alt
朝倉館址

『明智軍記』がいうように、500貫の知行を与えられていたとしたらかなりの重臣である。一乗谷の朝倉館の近くに重臣たちの屋敷があったことは発掘調査から明らかで、仮に500貫の知行を与えられていれば、一乗谷の内側に屋敷をもっていて当然である。ところが、光秀の屋敷は、現在の福井市東大味町というところにあったといわれている。そこに明智神社という祠があり、光秀の屋敷跡という伝承がある。一乗谷の外なので、大身というわけではなかったらしい。

alt
明智神社

なお、大身ではなかったからという理由とは別の理由も指摘されている。河合千秋編『福井県の伝説』によると、朝倉義景は、光秀の非凡の才を認めたが、譜代の家臣ではないので信用しておらず、客分の待遇で、一乗谷城下の外を守らせたとしている。存外、そんなところが本当の理由だったかもしれない。

そして、その後、何ごともなければ、光秀は一生、朝倉の家臣で終わったのではなかろうか。ところが、そこから思わぬ事態となる。きっかけは松永久秀と三好三人衆による、十三代将軍足利義輝弑逆(しいぎゃく)である。このとき、奈良の一乗院門跡となっていた義輝の弟・覚慶が、細川藤孝らの手によって救出され、近江・若狭を経て越前の朝倉義景のもとに転がりこんできた。覚慶は、還俗して義昭と名乗り、自分を京に連れていって将軍にするよう、義景に要請している。

義景は、義昭を一乗谷の朝倉館でもてなすが、上洛の軍を起こそうとはしなかった。しびれを切らしたのが細川藤孝だった。その藤孝に接近したのが光秀である。「義景を頼りにするのではなく、尾張から美濃に版図を広げた織田信長を頼ったらどうか」と提案したのではないかと思われる。光秀にしてみれば、信長の正室帰蝶がいとこの関係にあることで、信長に親近感をもっていた可能性はある。こうして永禄11年(1568)7月、義昭は美濃の信長のところに移るのである。

alt
復元一乗谷城下

▶第5回「「金ヶ崎退き口」と光秀」はこちら
▶城と光秀 その他の記事はこちら

alt
執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数