明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第4回 【甲府城】新選組の宴が敗因!? 無血開城した要の城

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は、1868慶応4)年に江戸城防衛の要・甲府城をめぐって繰り広げられた新選組と新政府軍の攻防を取り上げます。



鳥羽・伏見の戦いは新政府軍が勝利。敗れた旧幕府軍のリーダーである15代将軍・徳川慶喜は家臣を置いて敵前逃亡し、江戸へ帰ってしまいました。慶喜はこれ以上、新政府軍に抵抗する気はなかったのですが、おさまりがつかないのが幕臣たち。幕府を政治の頂点に戻すことをあきらめず、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争はいよいよ本格化します。そして両軍が同時にねらったのは、江戸防衛の要になる甲府城(山梨県)でした。

▼明治維新関連のお城MAP
明治維新お城MAP

▼明治維新の年表もチェック
明治維新年表

甲府城、甲府駅
JR甲府駅から見た甲府城

江戸城の西の守りに欠かせない甲府城

東京の地下鉄に半蔵門線という路線があり、この路線に半蔵門という駅があるのは、ご存じの方も多いでしょう。この駅を降りると実際に、「半蔵門」があります。半蔵門は江戸幕府の本拠地である江戸城(東京都)の裏門にして西門。名前の由来は江戸幕府初代将軍・徳川家康の家臣である服部半蔵が門番だったからなのですが、半蔵はただの門番ではなく重要な使命を仰せつかっていました。

それは、敵に攻めこまれたときに将軍などの要人を西へ逃がすというものです。半蔵門は江戸から西へのびる甲州街道のはじまりの地点で、甲州街道を進むと甲斐まで逃げられます。そして逃げのびた将軍たちは、甲府城に籠城して敵に当たるというのが有事の際のマニュアルでした。

甲府城、鉄門
2013年に復元された甲府城鉄門。門扉に鉄板を貼り、防御性を高めている

つまり甲府城は、江戸城の西を守る前線基地であり、後詰めの城でもあるのです。その役割は幕末になっても変わりません。このため、鳥羽・伏見の戦いで敗れた15代将軍・徳川慶喜が江戸に逃れると、戦いの舞台が近畿から関東に移り、甲府城の重要性が高まりました。こうして旧幕府軍からは新選組、新政府軍からは迅衝隊(じんしょうたい)が、同時に甲府城を手に入れるため軍を進めたのです。

幕府への忠誠が「重すぎる」新選組

新選組は剣術道場の師範を務めた近藤勇が局長、その道場で技を磨いた土方歳三が副長を務める剣豪集団です。近藤勇も土方歳三も武士の出ではありませんが武士へのあこがれが強く、武士のトップである将軍に忠誠を誓って戦い続けました。これが評価されて幕臣に採用され、晴れて武士の仲間入りをしています。

甲府城、近藤勇、土方歳三、新撰組
近藤勇(右)と土方歳三(左)の写真。新選組は京都で多くの攘夷志士を殺害したため、薩摩藩と長州藩から恨まれていた

ただ、新選組には「武士よりも武士らしくあれ」という厳しい規律があるため、幕府と対立する人物を容赦なく傷つけてきたのも事実。これに頭を悩ませたのが、徳川慶喜に戦後処理を任された幕臣の勝海舟です。勝海舟はなるべく穏やかに新政府軍と交渉したいと考えていました。しかし、新選組が江戸にいると新政府軍からの印象が悪いですし、新選組がなにをするかもわかりません。そこで勝海舟は「甲府城を新政府軍から守るように」と命じて、新選組を江戸から出すことにしたのです。しかも甲陽鎮撫隊という新しい名前を与えて、新選組とわからないようにしました。

「名誉ある」使命を与えられた新選組は大喜び。ふたつ返事で甲府城に向かいます。新選組の「将軍や幕府の役に立ちたい」という思いは本物ですが、そのためにどんな過激な手段も使ってしまうところは困りもの。幕府にとって新選組は、「愛が重すぎる恋人」のような存在だったのですね。

一方の新政府軍の迅衝隊は、土佐藩の板垣退助が率いる部隊です。実はこの板垣退助、甲府城に向かう直前まで「乾」という名字でした。「板垣」は退助の12代前の先祖で、戦国大名・武田信玄の家臣だった板垣信方にちなんだもの。甲斐は武田信玄のお膝元だったので、信玄家臣の血筋を強調すればこころよく迎え入れてもらえるのではと考え、先祖の名字「板垣」に改名したのです。

効果はてきめんで、武田信玄を敬愛する甲斐の人々は板垣退助を歓迎しました。このおかげで板垣退助は甲府城の無血開城に成功します。

甲府城、武田信玄、魔縁塚
武田信玄の墓所とされる魔縁塚。板垣の甲府入城を歓迎した甲府の人々は武田信玄の墓前で「断金隊」や「護国隊」を結成して、新政府軍に味方をした

故郷に錦を飾った新選組の喜びも束の間

そもそも幕府の守りの要である甲府城は幕府に派遣された役人が守っていたので、新選組が先に到着すれば問題なく手に入れられるはずでした。それなのに板垣退助にやすやすと取られてしまったのは、新選組の歩みが遅すぎたためです。

江戸から甲斐に向かう道中にある府中は、近藤勇たちの出身地。親族が大切な使命をあずかって帰ってきたら、やはり誰でもうれしいですよね。新選組は歓迎と激励の宴会に引き止められて、ここで1泊してしまいました。しかも府中の前に新宿、府中のあとにも八王子で1泊して遊んでしまったので、板垣退助に先手を取られたのは当然だったのです。

結局、新選組は甲府城に入れないまま、城から15kmほど東の勝沼に陣を敷きました。こうして甲州勝沼の戦いがはじまります。このときの新選組の兵力は130ほど。しかもせっかく幕府から借りた6門の大砲を、行軍のじゃまになるからと4門も置いてきていました。対する新政府軍はほぼ10倍の1200の軍勢を勝沼に送りこんできます。

甲府城、近藤勇、像
新政府軍と新選組は柏尾の大善寺付近で衝突した。戦場跡には、近藤勇の像が立っている

これでは新選組が剣豪ぞろいでも、さすがにかないません。敗れた新選組は江戸に撤退し、ここから主要メンバーが次々と分裂していきます。甲州勝沼の戦いは、甲陽鎮撫隊という名前に変えられたとはいえ、新選組が新選組として臨んだ最後の戦いだったといえるでしょう。

甲府城(こうふ・じょう/山梨県甲府市)
甲府はかつて戦国大名・武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館が置かれていた。武田氏滅亡後、豊臣氏や徳川氏により近世城郭が築かれる。廃城令後、建物は撤去され、城内は中央本線の線路によって分断されてしまう。近年、櫓や門の復元が進められている。

▼明治維新150周年企画「維新の舞台と城」その他の記事はこちらから

執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。

関連書籍・商品など