昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第4回 【和歌山城】在りし日の姿の再現せよ!

昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。今回は和歌山県にある和歌山城を取り上げる。江戸時代の図面などから焼失前の外観をほぼ完璧に再現した城である。


和歌山城、天守、御橋廊下、復元
平成に入ってから復元された御橋廊下と和歌山城天守

幕末期の姿に城を整備する計画が進行中

一口城主という言葉をご存じだろうか? 城の整備・保存などを目的として、一口いくらで寄付を募り、寄付者の氏名を城内の芳名板に記載したり、記念品や一定期間の入城が無料となったりするなどの特典が付くシステムのことである。多くの城で活用されており、今回紹介する和歌山城でも一口城主を募っている(正確には一口城主ではなく「和歌山市史跡和歌山城整備基金」であるが)。

和歌山城では寄付者に「まりと殿様証」なる証明書を発行するとともに、氏名が天守閣に1年間掲示されるようになっている。また、記念品として和歌山城整備復元図、記念鯱などの和歌山城オリジナルグッズを口数に応じてプレゼントしており、「幕末期の姿に城を整備する」という気宇壮大な計画が進行中である。なぜ、再建する姿が幕末期の城なの? という疑問にお答えするために、少し和歌山城の歴史を振り返ってみたい。

和歌山城は、尾張・水戸と並ぶ徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城である。紀州徳川家といえば、ドラマ「暴れん坊将軍」でおなじみの8代将軍徳川吉宗を輩出している家だ。名君の誉れ高い吉宗は、教科書にも出てくる目安箱を設置した人物として知られているが、和歌山藩主時代にも和歌山城一の橋のたもとに「訴訟箱」という目安箱の前身を設置していた。

和歌山城、徳川吉宗、銅像、和歌山県立近代美術館
和歌山県立近代美術館前に立つ徳川吉宗の銅像

さて、和歌山城の話である。この城に最初に天守を建てたのは、紀州徳川家の前に和歌山を治めていた浅野幸長だといわれる。その後、浅野家が広島に転封することになり、和歌山には徳川家康の10男・頼宣が入り紀州徳川家がはじまる。頼宣は兄である2代将軍・秀忠から銀2000貫を授かり、大規模な拡張工事を行った。銀2000貫を現在の価格にするとなんと約40億!  徳川の城として恥ずかしくない規模と威容を兼ね添えた城を目指し、頼宣はさらに城下町の拡張にも着手する。しかし、あまりにも大規模な改修は幕府に謀叛の疑いを抱かせる結果となり、計画は中止となってしまった。

同じ時期、江戸城天守の建て替えが行われているため、記録には残っていないものの、和歌山城天守も建て替えたのではないか? という説もある。しかし、残念ながら和歌山城天守は江戸時代末の弘化3年(1846)に落雷で焼失してしまい、その真相は不明である。ただ、御三家の城ということもあり、すぐさま嘉永3年(1850)に再建されている。この再建された天守が現在の和歌山城天守である。

そのため、現在の再建計画は幕末期の姿を取り戻そうとしているのだ。だが、このまま幕末の再建天守が現代に残っていれば基金を募って城を復活させる必要はない。

焼失前と違いが分からないほど忠実に再現された天守群

明治維新をくぐり抜けた和歌山城は、県が城地を借り受けて公園として整備する。その後、市に下げ渡されて市民の城となった和歌山城は、大正時代には南の丸に「猿・鹿・水禽の飼養場」という何とも当時らしいネーミングの動物園が建てられた。建設計画当時、国内には上野動物園、京都市動物園、天王寺動物園の3つしかなく、小さいながら家族でのんびりと過ごせる動物園として市民に愛されることとなる。

昭和に入りると城は国の史跡に指定され、さらに天守など11棟が国宝に指定される。しかし、世の中は戦争に向かって突き進んでいた時代。国宝指定から10年後の昭和20年(1945)、奇しくも尾張徳川家の名古屋城、水戸徳川家の水戸城、前和歌山城主だった浅野家の広島城と時を同じくして、空襲で再び焼失してしまう。焼失は悲しいことだが、御三家、前城主の城が同時期に無くなってしまう出来事には、何かしらの縁を感じずにはいられない。

市民のシンボルだった和歌山城再建計画は戦後まもなくして立ち上がった。基金が設立され、昭和32年(1957)に和歌山城の再建工事が着工する。総工費は1億2千万円で、内47パーセントが市民の寄付金でまかなわれていた。

翌年、三重の天守をはじめとした天守曲輪の建物群が鉄筋コンクリート(一部木造)で復元される。天守開放日の初日には市民が早朝から列をなし、焼失から13年後の天守再建を祝った。

復元にあたっては、嘉永3年の天守再建の際の図面や戦前の平面図、さまざまな角度からの古写真をもとに綿密に設計がなされた。その完成度は焼失前の写真と見比べても、違いが分からないほど忠実に再現されており、関係者や市民の熱意を感じずにはいられない。

白亜、三重天守
鉄筋コンクリートで復元された白亜の三重天守

以降、空襲で焼け残った数少ない遺構である岡田門の解体修理、紅葉が美しいことから紅葉渓庭園とも呼ばれる西の丸庭園の整備・復元、城内で初となる木造による一の橋大手門の再建、追廻門解体修理など次々に保存整備が行われていく。復元された西の丸庭園は江戸初期の遺構を残す大名庭園として名勝に指定され、園内には和歌山市出身の松下幸之助から茶室紅松庵が寄付された。

平成に入っても江戸時代の図面をもとに、5年の歳月と総事業費6億を費やし、西の丸と二の丸を結んでいた御橋廊下を木造復元するなど、継続的に整備が続けられている。

2018年は和歌山城の外観復元から60年を迎える。再建に向けた熱は冷めることなく、幕末期の和歌山城の姿に戻る日は、そう遠くないのかもしれない。


和歌山城(わかやま・じょう/和歌山県和歌山市)
和歌山城は羽柴秀長が天正13年(1585)に築城を開始した平山城。慶長5年(1600)には浅野幸長が入り城を拡張、天守を築いた。元和5年(1619)には徳川頼宣が城主となり御三家の一つ紀州徳川家の祖となる。天守は弘化3年(1846)に落雷で焼失してしまうが、嘉永3年(1850)に再建されている。そのまま明治維新を迎え、明治4年(1871)に兵部省の管轄となる。

執筆/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。