超入門! お城セミナー 第32回【構造】「大手」ってよく見かけるけど、どこのこと?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。第32回は、城を訪れた際によく目にする「大手」について解説。東京をはじめとする都市によくある「大手町」という地名。実は、城に由来する言葉だって知っていましたか?



大阪城、大手門、鏡石
大坂城大手門。巨大な鏡石がいくつも配置され、城へ入るものを静かに威圧している

城の正面を守る「大手門」

城を訪ねた時、見学用の入口が「大手門」という名前になっていることが多いですよね。また、「大手町」という地名は全国にたくさんあります。さて、今回はこの「大手」なるものの意味に迫ってみましょう。

最初に答えを言ってしまうと、「大手」とは、城の表側。つまり正面のことです。ということは、「大手門」とは、城の顔となる正面玄関のこと。多くは人や物の流れの中心となる街道や、防御機能も兼ね備えた城下町に通じています。この大手門の前に位置することからついたのが、「大手町」という地名です。

大手門は、最も重要な門となるため、見る者に威圧感を与える外観で、厳重な防御設備が敷かれています。規模の大きな近世城郭ではほとんどが、堀→(おもに)土橋→櫓門→その奥に枡形→もう一つの門、という厳重な構造になっていることが多いと思います。さらに、周囲の城壁や門に狭間や石落しなどといった防御の工夫が施されています。

この「大手」は、もとは「追手」と書いていたようで、高知城(高知県)や郡山城(奈良県)など、現在でも「追手門」「追手町」という表記が残っている城や城下町もあります。ではなぜ城の正面を「追手」と言ったのでしょうか。敵が正面側から攻めてくると、裏側の出入口から守兵を出し、敵を正面に追い込んで攻撃・退却させ、場合によっては追撃するという、城に攻めてくる敵を迎撃する時の戦い方のセオリーが語源になっているという説があります。ちなみに、各業界トップクラスの企業を表す「大手企業」の「大手」は、証券などの取引所が電子化する前、大口の取引が入った際に大きく手を振って合図したから、などという説があり、城の大手とは意味が違うようです。

高知城、追手門、内桝形門
高知城の追手門。内枡形門であるが、前面に門が建てられず開放された状態のため、防御力はあまり高くない

表側の「大手」に対して、城の裏側は「搦手(からめて)」といいます。搦手門は、平時には非公式の手軽な出入り口や近道として、また、不浄なものを運び出す時などにも使われました。有事には、敵に気付かれずに兵を出したり、城主の逃走経路となったりもしますので、むしろ少人数で守ることができる方が便利。比較的狭く小さく作られていることが多いようです。この「搦手」の語源は「搦め捕る」。動きを封じて捕らえるという意味なので、やはり先ほどの迎撃時の戦い方からできた言葉だと考えられます。裏口から出撃した守兵は、攻め寄せてくる敵を側面攻撃して正面の1カ所に追い込んで動きを封じる、というわけですね。

搦手門、金沢城、石川門、桝形構造
金沢城の搦手門である石川門。コンパクトながら枡形構造の他に二重櫓も備えた厳重な造りだ

ところで、この大手門と搦手門の関係は、虎口が多く設けられた規模の大きな城になってくると、「表と裏」といった一対一の関係ではすまないようです。大坂城(大阪府)の搦手門は、玉造・青屋・京橋の三つの門。江戸城(東京都)は諸説ありますが、平河門と北詰橋門が搦手門です。姫路城(兵庫県)に至っては、喜斉門(きさいもん)が搦手門ではあるのですが、この門の内側に続くつづら折れの坂道に、とノ四門〜とノ一門の複数の門が構えられています。こうなると搦手とは、単に裏側というより、「大手以外の虎口」と考えた方がいいのかもしれませんね。

縄張の基本は南に大手門、北に搦手門

では、「大手」と「搦手」の位置はどうやって決めるのでしょうか? 縄張には「大手は南、搦手は北」という基本スタイルがあるようですが、これは地形や政情によって変化します。城は軍事的防御施設ですから、敵のいる方向や敵が攻めてくるだろう方向に相対する必要があります。北側に開いた土地の城や、政情によって守るべき方向が変化する勢力と勢力の境目にある城などは、基本通りにはなかなかいきません。

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近世に新築された弘前城(青森県)は縄張のセオリーに従い、南に大手門、北に搦手門を配置している(イラスト=香川元太郎)

例えば、瀬戸内海の南側に位置する高松城(香川県)は、北にあたる海側に「水手御門」という門があり、「海の大手門」と呼ばれています。陸側にも大手にあたる門がありますが、海(北)と陸(南)の両面ともが重要な海城だったのです。

高松城、水の手御門、瀬戸内海
高松城の水の手御門。かつては瀬戸内海から直接出入りすることができた

また、関ヶ原の戦いの時に西軍が拠点にした大垣城(岐阜県)は、東と南の2面に大手が設けられています。江戸時代に入って政情が安定してからは徳川の家臣が城主になりましたが、それまでは織田や豊臣の家臣が城主の時代が長く、またこの時期に縄張が整えられているようなので、大垣城はそもそも東側の勢力に相対する城だったと読み取ることができるのです。

彦根城(滋賀県)も、東西日本の境目となる近江国の要衝。徳川家康が、重臣・井伊直政(いいなおまさ)を城主にして豊臣家をはじめとする西国大名へにらみを利かすために築いた重要な城でした。そのため、当初大手門は西側に設けられていたのですが、豊臣家滅亡後は利便性を重視して東海道に近い南側に「表門」を設けて正門とし、現在に至ります。

以上のように、大手・搦手を知ることで、その城の役割や防御の工夫まで読み取ることができるのです。意外に深〜い大手と搦手、今後の城めぐりでは、ぜひともチェックをお忘れなく!


執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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