明治維新150周年企画「維新の舞台と城」 第3回 【大坂城】味方を見捨て、将軍・慶喜まさかの敵前逃亡

明治維新150周年を記念して、維新と関連の深いお城を紹介します。今回は江戸幕府の西国拠点・大阪城。この城で将軍慶喜がとった驚きの行動とは?



江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は、倒幕を目ざす薩摩藩・長州藩との直接対決を避けるため、大政奉還によって政権を朝廷に返上しました。しかしその裏には、朝廷には政権を運営する力がなく、新たな体制のもと徳川家が主導権を握れるだろう、という読みがあったのです。これに対して倒幕派は、京都御所でクーデターを決行。王政復古の大号令を発して天皇を中心とする新政府の樹立を宣言しました。これに対抗するため、慶喜は大坂城(大阪府)から鳥羽・伏見の戦いに臨むのですが……。

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大阪城、縄張、徳川氏時代
現在の大阪城。現在見ることができる縄張は徳川氏時代のもの

明治維新を境に「坂」から「阪」へ

明治時代以前の大阪がドラマの字幕や小説に出てくると、「あれ?」と思うことがないでしょうか。そう、「阪」が「坂」になっていますよね。現在、地名として正しい書きかたは「大阪」です。しかし明治時代になるまでは「坂」を使うのが主流だったため、このような違いが出てきます。

「大坂」という地名は、戦国時代ごろに誕生したといわれます。江戸時代の中期ごろから、「坂」は「土に反(返)る」と見えるので不吉だとして、似た意味を持つ「阪」も使われはじめたとか。そして明治維新の時期に、大坂を平定した明治新政府によって正式に大阪と決められました。

この大坂に築かれた、戦国時代の天下人の城が大坂城。築城者は豊臣秀吉です。秀吉は愛息の秀頼のために堅牢な大坂城を築き、豊臣家の天下が続くことを願いました。しかし秀頼は大坂の陣で徳川家康に敗れ、江戸時代から大坂城は徳川家のものになったのです。

大阪城、豊臣秀吉、大坂城
豊臣秀吉肖像(東京史料編纂所所蔵・模写)。秀吉が築いた大坂城は20万の大軍を寄せ付けなかった堅城だった

幕末の大坂城は、幕府の重要な拠点のひとつ。第二次長州攻めでは、14代将軍・徳川家茂が、そして、鳥羽・伏見の戦いでは、15代将軍・徳川慶喜が大坂城で指揮を執りました。大政奉還後に発せられた王政復古の大号令で幕府は廃止されましたが、慶喜はこれに対抗して大坂城で兵をあげ、西郷隆盛たち新政府に戦いを挑んだのでした。

まさかの将軍敵前逃亡

鳥羽・伏見の戦いの兵力は、幕府軍1万5千に対し新政府軍5千といわれ、幕府軍が有利に見えました。しかし幕府軍は、勝海舟などの軍事に詳しい幕臣を本拠地の江戸城(東京都)に残していたためしっかりした作戦を立てられず、海外の最新兵器を取り入れた新政府軍に敗れてしまいます。

伏見奉行所跡、大坂城、石碑
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が本陣としていた伏見奉行所跡。現在は石碑のみが残る

ひとまず大坂城に撤退した徳川慶喜は、家臣たちに「最後の一騎になっても退くことは許さない」と檄を飛ばして将軍の威厳を示しました。しかし、胸の内はひどく動揺していたのです。敵より3倍近くも兵力があれば、勝てると思うのは当然ですよね。それなのに、結果は敗戦。慶喜は冷静さを失ってしまいました。そして新政府軍が大坂城に向かっているという報せを聞くと、「このまま大坂城にいれば新政府軍に包囲される」と焦りをつのらせ、驚くべき行動に出るのです。

それは、仲間を置き去りにした敵前逃亡。徳川慶喜は会津藩主の松平容保などごくわずかの重臣だけを連れて幕府の軍艦・開陽丸に乗り込み、江戸城へ戻ってしまったのです。

リーダーが敵を目の前にしながら、仲間を置いて逃げてしまうなんて、信じられませんよね。ただ、徳川慶喜には心情的につらいところもあったようです。鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍が朝廷の象徴である錦の御旗を掲げて、「自分たちこそ正義の軍だ」と主張しました。実は慶喜の母は天皇家の出身で、慶喜はその血筋を誇りにしていたので、自分が朝廷に逆らうものにされてとてもショックだったのです。

また、徳川慶喜はもともと鳥羽・伏見の戦いに乗り気ではなかったともいわれます。兵をあげたのも熱狂的に幕府を支持する会津藩や桑名藩の怒りを抑えられなかっただけで、本音では王政復古の大号令が出た時点で江戸に戻って態勢を立て直したかったようです。

大阪城、復元天守
大阪城の復元天守。江戸時代の天守は寛文5年(1665)に焼失して以降、昭和まで再建されなかったため、徳川慶喜の時代に天守はなかった

日本全土が内乱の渦中へ

徳川慶喜に置いて行かれた幕臣たちが驚いたのはもちろんですが、中でもいちばん驚いたのは海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)でしょう。なにしろ武揚は開陽丸の艦長。それなのに置き去りにされたうえ、無断で自分の軍艦を乗り逃げされたのですから、たまったものではありません。江戸で慶喜に再会した武揚は、「腰が抜けたのか」と怒ったそうです。

大坂城、錦絵
大坂城から脱出する徳川慶喜を描いた錦絵(会津新選組記念館提供)

実際のところ、徳川慶喜の判断は考えが足りなかったといえるかもしれません。鳥羽・伏見の敗戦後、敵前逃亡をしないで大坂城に籠城すれば、幕府軍は形勢逆転できた可能性があるのです。かつて、大坂の陣では籠城した豊臣家が敗れましたが、それは援軍がなかったから。幕府軍には江戸城の軍勢もいますし、幕府軍苦戦の報せをきいて援軍を整えた藩もありました。新政府軍に包囲されても勝ち目はあったのです。

江戸に戻った徳川慶喜は上野の寛永寺にこもって、もう新政府軍には逆らわないと態度で示しました。こうして約300年続いた江戸幕府は、ついに本当の終わりを迎えます。ところが、それでも幕府の終わりを認めない幕臣や幕府寄りの藩が次々と立ち上がり、日本は戊辰戦争という大規模な内乱で揺らぐことになります。

大阪城(おおさか・じょう/大阪府大阪市)
大阪城は天正11年(1583)、豊臣秀吉によって築かれた城。豊臣氏滅亡後は、徳川氏により改修再建され、江戸幕府の西国支配の要地となった。天守は度々焼失の憂き目にあっており、現在の天守は1931年に復元されたものである。

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執筆・写真/かみゆ
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。

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