2021/05/12
籠城戦で敵を撃退した戦いを検証する|小和田哲男 第2回 第1次月山富田城の戦い
戦国時代の武将たちの戦略の一つとして、お城に立て籠もる「籠城戦」がありました。籠城戦というと、敵の攻撃を耐え続けた末に籠城側が最終的に破れてしまうイメージがありますが、実際はどうだったのか? ドラマの時代考証などを担当されている小和田哲男先生が、籠城側が敵を撃退した戦いを通じて、その戦略を紐解きます。第2回のテーマは、大内義隆による出雲遠征で月山富田城を舞台に起きた「第1次月山富田城の戦い」です。
「尼子離れ」を好機とみた大内義隆
月山富田城(島根県安来市)の籠城戦は2回あり、籠城して敵を撃退したのは最初の方で、ふつう、第1次月山富田城の戦いとよんでいる。
実は、この第1次月山富田城の戦いは、前回紹介した安芸郡山城の戦いに連動していたのである。尼子軍の安芸遠征が、毛利元就のがんばりで失敗、敗北したことで、それまで尼子氏に属していた安芸・備後・石見の国人領主クラスの部将たちが、尼子氏と手を切って大内氏に属しはじめたのである。その動きは、とうとう尼子氏の本国である出雲にまで及びはじめた。
天文10年(1541)11月の尼子経久の死も国人領主たちの「尼子離れ」を促進させる結果となった。しかも、新たに大内氏に属すことになった国人領主たちは、早く尼子氏の脅威から逃れたいと、「尼子晴久を討ってほしい」と大内義隆に要請していた。
そうした声に押され、また、安芸郡山城の戦いで尼子軍を撃退したという思いも手伝って、義隆も出雲遠征へと傾いていったのである。具体的に義隆が尼子攻めの軍事行動を起こしたのは、天文11年(1542)正月11日のことで、この日、義隆は自ら養嗣子晴持をはじめ、譜代の重臣である陶隆房(晴賢)・杉重矩(しげのり)・内藤興盛・弘中(ひろなか)隆兼らを率いて山口を出陣した。その数1万5000という。
安芸で、毛利元就・宍戸隆家・吉川興経・小早川正平ら、備後で、三吉(みよし)広隆・山名理興(まさおき)・山内隆通らが合流したので、大内軍はおびただしい数となった。
赤穴城を落とす毛利元就

出雲十旗(尼子十旗)図
出雲の、備後と石見の国境近くに赤穴(あかな)城(島根県飯石郡飯南町)という城があった。「尼子十旗」の一人として、月山富田城の南の守りのため赤穴光清という尼子氏の重臣が守っていた城である。大内軍の先鋒として、この赤穴城攻めを命じられたのは元就だった。元就は7月27日に赤穴城に総攻撃を加えて落としているが、しかし、ここまでで半年もかかっていた。
ようやく10月になって、義隆は本陣を三刀屋峯に置き、翌12年(1543)正月、本陣を月山富田城のすぐ近く、京羅木山(きょうらぎやま)に移すという状態であった。

月山富田城本丸から京羅木山を望む
本格的な月山富田城攻めがなかなかはじまらなかったのは、出雲の国人領主三刀屋久扶(ひさより)・三沢為清(みざわためきよ)・本城常光らの調略に思いのほか時間がかかったのと、もう一つ、大内陣営内に、城攻めの方法をめぐって意見対立があったからといわれている。陶隆房の急戦論と、毛利元就の漸進論で、結局、急戦論がとられ、3月14日、月山富田城の登城路の一つ菅谷(すがたに)口での攻防戦がはじまった。
三刀屋久扶らの寝返りで包囲網が崩壊

山そのものが天然の要害となっていた月山富田城を飯梨川から望む
月山富田城は天険の要害で、大内軍は攻めあぐねていたが、4月晦日になって異変が起きた。それまで、尼子方から大内方に寝返り、大内方の陣営にあって城攻めをしていた三刀屋久扶・三沢為清・本城常光・山内隆通らが月山富田城に入り、再び尼子方に属してしまったのである。これで月山富田城の包囲網は完全に崩れてしまった。
しかも、それだけでなく、三刀屋久扶・三沢為清らが尼子方になったことによって、大内軍が出雲の奥深くに侵入していること自体が危険と判断されるようになったのである。
義隆はそれ以上の月山富田城攻めをあきらめ、5月7日、全軍の撤退を決定し、その日のうちに京羅木山の本陣を退いて、義隆は陸路をとって、馬潟(うまがた)・津田を経て石見路を山口へ逃げ帰った。ところが、義隆の養嗣子晴持は、海路をとって敗走したことがかえって災いし、乗っていた船が転覆して死んでしまったのである。
こうして1年4ヵ月にわたる義隆の出雲遠征は何も得るところなく終わったが、前回みた安芸遠征で尼子氏の衰退がはじまったのと全く同じで、今度は、この出雲遠征の失敗で大内氏の衰退がはじまることになった。
戦いは、負けて撤退するとき、敵の追撃を受けて犠牲者を出すことが多い。このときも、元就は尼子軍に追われ必死に逃げたが、とうとう石見の大江坂七曲というところで追いつかれてしまい、そこで家臣の渡辺平蔵・児玉元保(もとやす)・三戸就清(なりきよ)・井上就良(なりよし)ら何人もの重臣クラスが討たれている。元就自身も危なかったが、家臣の渡辺通(とおる)が元就の甲冑を身につけ、元就の馬に乗り、身代わりになったため窮地を脱し、郡山城に逃げもどることができた。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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