2022/05/18
戦国10大合戦と城|小和田哲男 第2回 川中島の戦い
戦国時代を代表する数々の合戦においてお城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載「戦国10大合戦と城」。第2回のテーマは、武田信玄と上杉謙信が5回にわたって激突した川中島の戦い。これまで野戦というイメージが強かったこの合戦を、それぞれの攻防の舞台となった城に注目しながら見直していきます。
前後5回戦った川中島の戦い
川中島の戦いというと、史実かどうかは別として、あの八幡原での武田信玄・上杉謙信の一騎討ちシーンが有名で、戦いそのものは野戦の範疇でとらえられている。ところが、実際の戦いでは、城が大きく関わっていたのである。
戦いの舞台となった川中島は、長野県北部、現在の長野市で、その字の示す通り、千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)に挟まれた中洲である。北に善光寺があることから善光寺平ともよばれている。
この川中島付近で、天文22年(1553)8月から永禄7年(1564)8月まで、足かけ12年間、信玄・謙信が、何と5回も戦っているのである。同じ相手と、ほぼ同じ場所で5回も戦うというのは他に例がない。力がほぼ互角だったからである。
信玄は領土拡張をねらい、謙信は、信玄によって信濃を逐われた村上義清らの旧領回復を旗印としていた。
はじめは城をめぐる攻防戦だった
弘治元年(1555)7月、第2回戦がくり広げられたとき、信玄は、その少し前に武田方となった栗田鶴寿に兵3000、弓800張、鉄砲300挺をつけて善光寺の北西にあたる旭山城(長野市安茂里)に入れている。この旭山城は標高785mの旭山の山頂を中心に築かれた山城である。

旭山城の全景

旭山城の空堀
それに対し、謙信は善光寺の北で、裾花川の対岸に位置する葛山(かつらやま)城(長野市茂菅)を本陣とし、にらみ合う形となった。このとき、駿河の今川義元が間に入ることにより、同年閏10月、信玄・謙信の間に和議が成立し両軍は兵を引き、信玄は旭山城を破却している。
この時点では、善光寺周辺が両軍攻防の最前線となっていたわけであるが、謙信は、武田軍が兵を引いたあと、弘治3年(1557)のことであるが、雪解けを待って善光寺平に出てきて、武田軍に備えるため、旭山城の再築を行っており、このことが原因となって同年8月、第3回戦がくり広げられている。
信玄による海津城の築城

海津城(松代城) 。後方の山は尼飾城
この第3回戦は特に大きな戦いとはならず、その後、数年が経過した。実は、その間に信玄が海津城(長野市松代町松代)の築城にとりかかっているのである。なお、従来は『甲陽軍鑑』を典拠に、天文22年(1553)に清野氏の清野屋敷を召し上げて、山本勘助に命じて築かせたといわれてきたが、平山優氏が『川中島の戦い』下巻(学研M文庫)で、弘治3年(1557)ごろから築城がはじめられ、永禄3年(1560)か翌4年に完成したと推定し、現在はその説が受け容れられている。この海津城が江戸時代の松代城である。
そして、いよいよ、最大の激戦となる第4回戦を迎える。戦いがあったのは永禄4年(1561)9月10日であるが、動きがあったのは8月16日で、この日、謙信が善光寺に着陣し、そこに5000の兵を残して、自ら1万3000の兵を率いて、雨宮の渡しを越えて妻女山に入っている。

竹山城から見た妻女山
謙信出馬の報は、すぐ海津城を守る高坂昌信に伝わり、昌信は、すぐ狼煙(のろし)を使ってこのことを甲斐躑躅ヶ崎(つつじがさき)館の信玄に伝えた。信玄もすぐ動員令を発し、8月18日、自ら1万6000の大軍を率いて躑躅ヶ崎館を出陣している。この頃、海津城にどのくらいの兵がいたかは不明であるが、せいぜい500、多くても1000程度と思われる。謙信が信玄本隊到着前に海津城をなぜ攻めなかったかは疑問である。
妻女山背後の鞍骨城との関係は
そして、いよいよ決戦当日である。通説では、信玄は山本勘助が提案した「啄木鳥(きつつき)の戦法」を採用したということになっている。つまり、武田軍本隊を八幡原に布陣させ、武田軍別働隊が妻女山の謙信本陣をうしろから襲い、前方の八幡原に出てきたところを討つという作戦である。しかし、この「啄木鳥の戦法」といわれるのは本当のことなのだろうか。
通説では、信玄本隊が8000で、別働隊が1万2000となっているが、妻女山を背後から襲うだけで1万2000は必要ないと思われる。また、私自身も、昼間ではあるが、海津城の背後から山の中に入り、妻女山の背後まで歩いてみたが、道らしい道はなく、ましてや、実際には9月9日の深夜の行動であり、実際には無理なのではないかと思った。
そして、実際にそのルートを歩いてみて、それまで気がつかなかったことに気づいた。それが鞍骨(くらぼね)城(長野市松代町清野・千曲市倉科竹尾)の存在である。麓からの高さ、すなわち比高が360mもある典型的な山城で、これまでは、この地の在地領主清野氏の詰の城といった位置づけで語られてきているが、妻女山の謙信陣所との関連を考えると、もしかしたら上杉軍関係の城とみることもできるのではないかと考えている。

鞍骨城の空堀
さて、9月10日の戦いは、周知の通り、前半は居るはずのない上杉軍が八幡原に布陣しているのにびっくりした武田軍が守勢に立たされたといわれ、「車懸(くるまがか)りの陣」をとる上杉軍に押され気味だったという。ただ、本当に「車懸りの陣」といった陣形をとったかどうかについては、私は疑問視している。どうも、近世の軍学者の創作ではなかろうか。
川中島の戦いはあまりにも有名な戦いであるため、江戸時代には軍学者たちにとっては恰好のテキストとなった。特に、甲州流軍学・越後流軍学(どちらも兵学ともいう)がもてはやされる中で、脚色される部分がふえていったのではないかと思われる。
また、9月10日の八幡原の戦いが語られることで、川中島の戦いそのものが野戦というイメージになっていったという側面があったことも指摘される。関係する城は、今回みてきたところだけではなく、まだまだあるわけで、城の視点で川中島の戦いを見直すことはこれからの課題ではないかと思われる。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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