真田氏墓所跡と推定される「日向畑遺跡」と、日向屋敷が放棄されたのは何故か。
それは天文10年(1541)5月、真田氏は隣国上野国へ亡命を余儀なくされたからであろう。天文10年5月13日、甲斐の戦国大名武田信虎は、同盟国諏方頼重(諏方郡の領主)、そして盟約を成立させた埴科郡葛尾城主村上義清と連合を組み、佐久・小県郡に侵攻を開始した。目標は、海野棟綱を統領とする滋野一族攻略である。真田氏は滋野一族であるので、惣領海野棟綱とともに連合軍と戦った。だが海野平合戦など各地の戦闘で撃破され、
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