2021/08/27
城と光秀|小和田哲男 第13回(最終回)山崎の戦いと勝龍寺城
本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公としてその人生が描かれました。『麒麟がくる』の時代考証を担当される小和田哲男先生による連載「城と光秀」の第13回。光秀にとって最後の戦となった山崎の戦いの全容を、敗色濃厚に陥った光秀が勝龍寺城で繰り広げた最後の抵抗まで迫ります。(※2020年2月5日初回公開)
山崎の戦いの光秀の本陣はどこか
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変後、光秀は一度、安土城(滋賀県)に入ったが、そこを娘婿の明智秀満にまかせ、自らは8日に坂本城(滋賀県)に入り、ついで9日、上洛している。光秀は朝廷に銀子500貫を贈っており、この段階で朝廷工作を優先していたことがわかる。
ところが、これが誤算だった。何と、羽柴秀吉が猛スピードでもどってきたのである。これを「中国大返し」といっているが、200キロの道のりをわずか7日間で畿内に兵をもどしている、光秀が秀吉軍の動きに関する情報をつかんだのは11日といわれている。その日、秀吉はすでに尼崎までもどっていた。
光秀としては、秀吉軍に京都を占領させるわけにはいかないので、京都と大坂の中間点である山崎のあたりで秀吉軍をくいとめる作戦をとった。山崎は、北に天王山、南には淀川が流れ、隘路(あいろ)となっていたからである。

恵解山古墳からみた天王山
光秀はすぐ全軍を山崎に向けて出陣させた。このときの軍勢を『太閤記』は1万6000とするが、そんなにはいなかったと思われる。本能寺襲撃のときの軍勢が1万3000といわれているので、それよりふえたとは思えない。周知のように、光秀の与力大名だった細川藤孝も筒井順慶も駆けつけてはこなかったので、多くて1万3000と思われる。
では、このとき、光秀はどこに本陣を置いたのだろうか。各種史料に「御坊(おんぼう)塚に本陣を置いた」と出てくるが、その御坊塚の現在地がよくわからないのである。
候補地は二つあり、一つは現在京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町の境野一号墳のところで、もう一つは、現在京都府長岡京市の恵(い)解山(げのやま)古墳のところである。両方とも古墳なので、御坊塚という名前と合致しており、どちらも可能性はある。ただ、大きいのは恵解山古墳の方なので、1万3000の大軍が布陣するとなると、境野一号墳の方はそれだけの大軍を収容するスペースはなく、恵解山古墳の可能性が高いように思われる。

光秀が本陣を置いた候補地と考えられている恵解山古墳
秀吉軍に攻められる勝龍寺城
光秀の大軍が下鳥羽から御坊塚のあたりに布陣したのが13日の早朝である。そこは、円明寺川の自然堤防背後の低湿地で深田となっており、平地でありながら、簡単には攻められにくい場所だった。
光秀と親しかった公家の吉田兼見(かねみ)が著わした『兼見卿記』によると、申の刻に鉄砲の音がしはじめたとあるので、開戦は午後4時ごろとなる。戦いをしかけたのは光秀側で、光秀軍の先鋒として天王山東麓に出ていた並河(なみかわ)易家(やすいえ)・松田政近隊が秀吉側の中川清秀・神子(みこ)田(だ)正治、それに黒田官兵衛隊に攻撃をはじめている。ところが、並河・松田隊が秀吉軍によって押しもどされる形となり、その結果、天王山南麓に進んでいた斎藤利三隊が孤立し、そこを秀吉軍主力が猛攻を加えたため、斎藤隊が崩れるという事態となった。
こうなると、圧倒的に秀吉軍有利となる。秀吉本隊は2万ほどであったが、このときには、織田信孝率いる4000、丹羽長秀も4000、池田恒興(つねおき)の5000、中川清秀の2500、高山右近の3000が加わっているので、4万近くにのぼっていた。結局、光秀は御坊塚の本陣を守ることができず、その後方の勝龍寺城(京都府)まで退却している。
さて、この勝龍寺城であるが、はじめ、山城国の守護畠山義就(よしひろ)が乙訓郡の郡代役所として築城したといわれている。すでに応仁・文明の乱のころの文書にも「勝龍寺搦手北の口に於て合戦」という文言もみえるので、城として機能していたことがわかる。その後、三好三人衆の居城として使われ、織田信長が攻め落としたあと、細川藤孝をこの城に入れたことが知られている。

光秀が本陣から退却した先の勝龍寺城
光秀は勝龍寺城で最後の抵抗を試みたわけであるが、城中に残った兵の数は激減していたと思われる。そこを秀吉軍が攻めることとなった。このとき、城攻めを担当したのが黒田官兵衛で、官兵衛は、勝龍寺城を完全に包囲するのではなく、北の口をわざと開けておき、籠城した兵がそこから逃げだすようにしむけたという。
光秀もその兵たちにまじって城を出たが、小栗栖(おぐりす)(京都市伏見区小栗栖)で、落武者狩りをしていた百姓のくり出した竹槍で討たれてしまった。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数









