2021/08/24
城と光秀|小和田哲男 第11回 福知山城と明智秀満
本能寺の変で織田信長を討った武将として知られる明智光秀。2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公としてその人生が描かれました。『麒麟がくる』の時代考証を担当される小和田哲男先生による連載「城と光秀」の第11回目。明智光秀が福知山では神に祀られている理由とは? また、福知山城(京都府福知山市)をなぜ光秀が重視したのか?(※2019年12月4日初回公開)
福知山で神に祀られた明智光秀
明智光秀は、天正10年(1582)6月2日に本能寺で主君・織田信長を討ったということで、どうしても主殺し(しゅうごろし)の悪人、謀反人としてとらえられがちである。ところが、福知山では光秀は神に祀られている。それが御霊神社で、祭神が光秀なのである。
御霊神社所蔵の宝永2年(1705)に書かれた「明智日向守光秀祠堂記」によると、光秀が城下の地子銭を免除したことに感謝したことが理由の一つだったことがわかる。
また、光秀が福知山城を築くとき、城下を水害から守るために、川の流路を変え、堤防を築いたことも理由としてあげられている。城下近くを流れる川が由良(ゆら)川で、これと土師(はぜ)川が合流するため、よく洪水がひきおこされたといわれている。光秀は、城下を守る堤防を築き、それがいまも残っている。

蛇ヶ端御藪
現在はその部分を「明智藪」とよんでいるが、この呼称は新しく、古くは「蛇ヶ端御藪(じゃがはなおんやぶ)」といわれていた。私は、むしろ、武田信玄の「信玄堤」、加藤清正の「清正堤」にならって「光秀堤」と呼んだ方がいいのではないかと考えている。いずれにせよ、光秀による福知山城の築城と城下町づくりによって、今日の福知山市発展の基礎が築かれたことはまちがいないところと思われる。
さて、その福知山城であるが、そこには横山城という名の城があり、横山信房が城主だったが、天正7年(1579)8月、光秀の軍勢に攻められて落城し、そのあと、光秀は自分の娘婿と重臣の藤木権兵衛をこの地に送りこみ、この二人によって、新たな福知山城の築城がはじめられている。
福知山城主明智秀満
城のくわしい築城過程は伝わらないが、翌8年4月には、茶人津田宗及(そうぎゅう)が光秀に誘われて天橋立見物に出かけたとき、福知山城で秀満の接待を受けたことが「津田宗及茶湯日記」にみえるので、大かた完成していたものと思われる。

復元天守
本丸の天守台の石垣は、光秀築城時のものといわれ、典型的な野面積で、注目されるのは、石垣に宝篋印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔の台石がかなりの数積まれていることである。よく、「石垣の石が不足し、それを補うために近辺の寺院から運んできた」と、石垣の石不足を理由に説明されることが多いが、もちろん、それも一つの理由ではあるとしても、台石が、いずれも逆さに積まれていることで、別のもう一つの理由が指摘される。

転用石
民俗学の言葉で「穢れの逆転」といういい方がある。穢れたものを逆さにすることによって、それを逆手にとるという発想である。豊臣秀吉の弟秀長が築いた大和郡山城の天守台にある「逆さ地蔵」がまさにそれで、当時の人びとは、石仏・石塔類を逆さに石垣に積むことで、城の安寧を願ったものであった。
近世に描かれた絵図によると、本丸の西に続いて二の丸があったが、光秀が築き、秀満が城主だったころの福知山城の実態についてはよくわかっていない。
では、光秀はなぜ、この福知山の地を重視したのだろうか。自分の娘婿である秀満を福知山城に入れたのはなぜなのだろうか。すでにこの連載の<第8回 光秀の丹波経略の拠点亀山城>で書いたように、光秀は信長から丹波一国を加増され、拠点城郭として亀山城を居城としていた。近江志賀郡支配の城として坂本城があり、この二つを拠点城郭としていた光秀が、なぜ、福知山城を重視したのかである。
結論をいってしまえば、福知山が交通の要衝の地だったからである。京・大坂と山陰地方を結ぶ陸路が福知山を通っていることと、もう一つ忘れてならないのが、由良川の存在である。由良川が若狭湾に流れこんでおり、日本海側の物資が由良川水運によって福知山まで運ばれていた。
江戸時代に入ってからもそうであるが、戦国期のこの段階で、大量物資輸送は川を使った舟運が主だったのである。だからこそ、光秀は娘婿の秀満に福知山城を築かせ、城下町も整備させたと考えられる。
さて、その秀満であるが、本能寺の変後、信長の居城だった安土城の守りについていたが、山崎の戦いで光秀が敗北したことを知った秀満は坂本城に移り、そこを秀吉方の堀秀政に攻められ、そこで自害している。
▶第12回「安土城内に明智光秀邸はあったか」はこちら
▶城と光秀 その他の記事はこちら

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数









