2018/07/12
昭和お城ヒストリー 〜天守再建に懸けた情熱〜 第1回 【岐阜城】日本初の模擬天守
昭和という時代にスポットを当て、天守再建の背景にある戦後復興や町おこしのドラマに迫る「昭和お城ヒストリー」。初回は岐阜城。実は現在の天守は2代目というのはご存知ですか?
市民が建てた最初の城
「木造トタン葺きの三層三階の天守」といえばどの城を思い浮かべるだろうか? いきなり質問となるが頭の体操だと思ってお付き合い頂きたい。
ヒント1:織田信長が天下布武を唱えた城。
ヒント2:古くは稲葉山城と呼ばれていた。
ヒント3:金華山の山頂にそびえ建ち、岐阜市街を見下ろしている。
もう、お分かりだと思う。そう、岐阜城である。岐阜城は三層四階の模擬天守じゃないか? という突っ込みが入るのは覚悟の上。実は現在の模擬天守は2代目で、明治から昭和はじめ頃まで、「木造トタン葺き」の三層三階の天守が建っていたのである。
1910年再建の模擬城(岐阜市歴史博物館提供)
ことの起こりは幕末の動乱も一昔前の出来事となった明治20年(1887)頃。西洋文化の影響を受けた散歩や登山が流行しはじめており、金華山も人びとの憩いの場となっていく。明治21年(1888)には整備された公園がオープン。その後、公園は岐阜市に移管され岐阜公園と改称された。こうして徐々に金華山整備の気運は高まっていった。
そして明治42年(1909)、金華山西麓にある長良橋を建て替える際に出た廃材を利用し、岐阜市保勝会(現在でいう観光協会)と岐阜建築業組合による天守造りがはじまった。翌年5月に落成式を迎えた城は、白く塗った板張りの壁にトタン葺きの屋根を持つ、高さ15・15mの日本初の常設の模擬天守だった。建設費用は500円という。新しい岐阜市のシンボルとなった城には、来場者が多く訪れ、明治43年(1910)6月から翌年4月はじめまで43,900余人、一日平均約140 人が登山した。
焼失した初代天守と岐阜城再建運動
太平洋戦争まっただ中の昭和18年(1943)2月17日午前3時頃、岐阜城から出火、約2時間燃え続けて城は灰と化した。内部に陳列されていた江戸時代の武具など約100点も燃え尽き、被害総額は5,000円だったという(大卒銀行員の初任給が75円の時代)。出火の原因はたき火の不始末であった。すぐに再建計画が持ち上がったものの、戦局は悪化の一途をたどっており、また、岐阜市内の空襲などもあり計画は消えていった。
戦後復興も進み人びとの生活にも豊かさが戻ってきた昭和30年(1955)、観光の目玉として金華山にロープウェーが建設された。現在でも岐阜公園と金華山の山頂駅を約3分で結んでいる。当時、空中ケーブルカーは全国に2か所しかなく、金華山には全国から人が集まり連日大盛況となった。この成功が、一度立ち消えになった岐阜城再建計画を具体化させていく。
同年6月、第1回岐阜城再建期成同盟会が開かれ、岐阜城再建に向けて動き出す。市民に城再建の寄付を呼びかけて1,800万円を集め、10月には再建工事がスタート。信長時代の岐阜城天守は、加納城に移築されたとの伝承があるため、設計には加納城の御三階櫓の図面も参考にしたという。また、半永久的に城を残したいとの思いから、再建は木造ではなく鉄筋コンクリートと決まった。
こうしてはじまった再建工事だが、金華山の大部分を国有林が占めるため、木を伐採して資材搬入用の道路を造ることができず、南麓の資材置き場と山頂を空中ケーブルで結びピストン輸送するという難工事をともなった。厳しい冬の間も工事が続けられ、翌年6月30日、ついに鉄筋コンクリート三層四階の天守が完成する。今にも残る岐阜城天守である。
公園内の千畳敷で憩う大正時代の人びと(岐阜市歴史博物館提供)
NHK大河ドラマ『国盗り物語』が大ブームとなった昭和48年(1973)、岐阜城には連日観光客が訪れた。その年、岐阜城の入場者は43万人を数え、ロープウェーの乗員も74万人を超える。これを受け「天守閣以外の建物も」という市民の声が大きくなり、川島紡績の全額寄付で鉄筋コンクリート瓦葺き二階建ての隅櫓が完成。コンクリートの打ち込み作業のため、輸送能力の高いヘリコプターで生コンを山頂に運び上げる必要があり、一日に120回往復したという。彦根城を参考に建てられた隅櫓は岐阜城資料館となり、同時に二の丸土塀もコンクリートで復現された。
その後、平成の大改修を経て、金華山一帯は2011年に「岐阜城跡」として国史跡に指定された。2017年には、織田信長が岐阜城に入城して450年となり、さまざまイベントが行われるなど、再建された岐阜城は、今日も岐阜市民のシンボルとして金華山から町を見下ろしている。
城プロフィール
岐阜城(岐阜県岐阜市)
織田信長が永禄10年(1567)に美濃の稲葉山城を攻略。井の口という地名を岐阜に、稲葉山城を岐阜城に改めたという。そして、岐阜城を本拠とした信長が、城の大改修を行って天守を築いた。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、信長の孫である秀信が西軍に属したため、東軍に攻められ落城した。天守や櫓などは加納城に移されたと伝わる。
執筆・写真/かみゆ
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