「お城EXPO 2018」徹底ガイド 新発見された書状が注目を集めている明智秀満ってどんな人?

本能寺の変で有名な明智光秀の家臣で、実は城との関わりも深い明智秀満。2018年に開催された「お城EXPO」では、新発見の「明智秀満書状」が公開され、話題となりました。明智秀満の生涯をご紹介します。



麒麟がくる、明智秀満
大河ドラマ「麒麟がくる」での活躍が期待される明智秀満。明智光秀の娘婿で光秀の信頼篤い家臣だった(落合芳幾筆『太平記英勇傳』より/都立中央図書館特別文庫室所蔵)

「麒麟がくる」の重要登場人物と予想される秀満

2020年放送予定のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、戦国大名・明智光秀が主人公。光秀といえば本能寺の変で主君・織田信長を討ち、裏切り者の代名詞のように扱われることも多いですよね。しかし今回のドラマでは、最新の研究成果も取り入れながら新解釈の物語を展開するとのこと。思慮深く細やかな気配りのできる人物だったという評価もある光秀が、どう描かれるか楽しみにしている方も多いでしょう。

光秀が主人公のドラマとなれば、一般的に広く知られていない周辺人物も今までの大河ドラマより詳しく描かれるでしょう。その予習として注目しておきたい人物が、光秀に仕えた重臣・明智秀満(あけちひでみつ)です。今年に入って秀満の手による書状が新発見されており、さらなる研究が進むと考えられています。

2018年2月に三重県で発見された「明智秀満書状」は、現存する5通の秀満書状の中でも特に、光秀の本拠地となる坂本城(滋賀県)の築城に関して秀満の指示が書かれたもの。「広間の襖・障子・引手・釘隠しの取りつけについて、責任を持って丁寧に行うこと」と命じる内容です。書状を調査した東京大学史料編纂所の村井祐樹教授は、「戦国時代の城郭の具体的な内装」と「光秀配下での秀満の役割」の2点がうかがえる貴重な史料と語っています。

明智秀満書状
三重県で発見された「明智秀満書状」(撮影:東京大学史料編纂所、協力:お城EXPO実行委員会)。「お城EXPO 2018」のテーマ展示で、織田信長の制札や豊臣秀吉の朱印状などの史料とともに展示される予定である

謎多き前半生を経て光秀の重臣に

この書状からもわかるように、秀満は光秀に築城の監督を任されるほど信頼されていたと考えられますが、実は前半生について詳しいことはわかっていません。明智姓を名乗ったのは光秀の娘と結婚してからのちのことで、もともとの名前は三宅弥平次(みやけやへいじ)だったと伝わります。

明智光秀、麒麟がくる
 秀満の主君である明智光秀。大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公に決定しているが、その前半生や本能寺の変を起こした動機などは未だ判然としていない。ドラマではどのように描かれるのだろうか…?(東京大学史料編纂所蔵・模写)

この三宅弥平次という人物は光秀のいとこ・明智光春(みつはる)と同一人物とされることもあり、さらに弥平次が生まれた三宅家は光秀の家臣とも漆塗りの職人ともいわれます。このようにさまざまな説が入り乱れているため、秀満の出自や光秀との関係性にはまだ多くの謎が残されているのです。ただし当時の記録に明智弥平次という人名が登場することや、なにより秀満が書いたとされる書状に「弥平次秀満」という署名があることから、明智秀満という人物は実在したようです。後世の書物では、光春の通称である「左馬助」とあわせて明智左馬助と呼ばれることもあります。

秀満の妻についても光秀の長女という説や養女という説など諸説ありますが、通説では長女といわれます。光秀の長女ははじめ信長の家臣・荒木村重(あらきむらしげ)の嫡男である荒木村次(むらつぐ)と結婚しましたが、村重が信長に謀反を起こしたときに明智家へ帰り、のちに秀満と再婚したと伝わります。

光秀の娘と結婚したのちの秀満は、坂本城築城に関わるなど光秀の領国経営に欠かせない右腕となりました。信長から丹波(現在の京都府・大阪府・兵庫県の一部)平定の命令を受けた光秀は、福智山城(京都府)を築いて戦略の拠点とします。そして丹波平定後、城の管理人役である城代に秀満を指名しました。福智山城は山城(現在の京都府南部)・丹後(現在の京都府北部)・但馬(現在の兵庫県北部)へと続く道が広がる交通の要衝。この大切な城を任せた点からも、光秀の秀満に対する信頼の厚さがうかがえますね。

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 秀満が城代を任された福知山城。現在見られる天守は、古絵図を元に1986年に外観復元されたものである

福智山城築城から3年後、光秀は本能寺の変を起こします。このとき光秀が謀反の意志を伝えた5人の家臣の中にも秀満がいました。光秀の決意を聞いた秀満は、「もはや思いとどまる必要はありません」と光秀を激励したといわれます。

すべての決着をつけたのちに自刃する

本能寺の変で信長を討つことは成功した光秀ですが、信長のかたき討ちに駆けつけた同僚・豊臣秀吉と山崎の戦いで衝突し、敗れてしまいます。そして落ちのびる道中で落ち武者狩りに遭い、最期を遂げたのでした。

このとき秀満は、どんな行動を取っていたのでしょうか。本能寺の変では先陣を切って攻め入り、計画通りに信長を倒しました。こののち光秀から別働隊を与えられ、山崎の戦いには加わらずに信長の本拠地だった安土城(滋賀県)に入ります。これは「天下人・光秀」の今後に備える戦略だったようです。しかし光秀敗死の報告が入ったため、秀満は安土城を捨てて坂本城に向かいました。安土城は山崎の戦い後に謎の火災で本丸周辺が焼失しており、その犯人を秀満だとする説があります。しかし秀満は安土城焼失より前に坂本城入りしているため、この説は事実ではないでしょう。

安土城天主、山崎の戦い
 織田信長が築いた豪華絢爛な安土城天主は、山崎の戦い後に謎の火災によって焼失してしまう。出火の原因は秀満説以外に、信長の息子・信雄(のぶかつ)説、夜盗説、落雷説があるが真相は判明していない

坂本城に向かう道中、秀吉の家臣・堀秀政(ほりひでまさ)と遭遇した秀満は、なんと馬と一緒に泳いで琵琶湖をわたったといわれます。安土城と坂本城は琵琶湖を挟んでほぼ東西に向かいあっているので、この「明智左馬助湖水渡り」の伝説が生み出されたのですね。

明智秀満、湖水渡り
 秀満の湖水渡り伝説は江戸時代になると、講談や歌舞伎、浮世絵などの題材に取り上げられるようになる(歌川豊宣筆『新撰太閤記』より)

こうして坂本城までたどり着いた秀満ですが、秀政の軍勢に包囲されていよいよ万策尽きてしまいます。そしてついに、坂本城に残されていた光秀の妻子を刺し殺し、城に火を放って自らも命を絶ったのでした。秀満はこれに先立って、光秀がコレクションした茶器や刀剣などの名品が落城とともに失われてはいけないと考え、目録を添えて秀政に引き渡したといわれます。すべてに決着をつけたのちの、見事な散り際といえるでしょう。

秀満にとっての坂本城は、まさに誕生から最期までを見届けた特別な存在でした。その築城に向けた熱意を感じ取れる「明智秀満書状」が、「お城EXPO 2018」のテーマ展示「麒麟から悉く―信長と秀吉の天下統一―」で展示される予定です。城郭ファンにとっても歴史ファンにとっても注目の書状を、この機会にぜひ肉眼で確認してください。


執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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