祝!10周年 お城EXPO 2025 徹底ガイド 徹底ガイド7 「『ムー』×お城EXPO―呪術・信仰・怪異―」とは? 企画展示紹介

「お城EXPO 2025」の企画展示は、なんと”ムー”とコラボ! スーパーミステリー・マガジン『ムー』の記事を入口に、城郭や武将・大名にまつわる謎と不思議を紹介します。

【はじめに―これまでのお城EXPOテーマ展示―】

今年で10周年を迎えるお城EXPOでは、これまでに城郭ファンや歴史ファンの多様な興味・関心に応えるべく、様々な視座からの展示を展開してきました。
2015年から2019年までは古文書や絵図などの実物資料から城郭や戦国~江戸時代初期の歴史を紹介する展示を、2020年と2021年は城郭や武将にまつわる伝承や描かれ方の展開などの表象に焦点を当てた展示を行いました。そして、2022年は築城技術や軍学から江戸時代の知の体系をたどり、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」にいたる過程を紹介し、2023年は江戸時代における城・戦・侍の描かれ方の展開を追うことで、これまでの展示を絵画資料によって捉えなおすことを試みました。

お城EXPO2025
2022年「城郭と技術」の様子

昨年の2024年は公益財団法人日本城郭協会が日本遺産とのオフィシャルパートナーシップを締結したことを受けて、城郭にまつわる日本遺産の紹介と、来城者の皆さまがそれぞれの興味・関心に従って史跡や文化財を巡るストーリーを作って巡ることを提案しました。

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2024年「城郭から見る日本遺産」の様子

このように、9年間で多角的な要素で城郭や城郭にまつわる事象の歴史について紹介する中で、2019年にはTOPPANによるデジタル想定復元「大坂冬の陣図屏風」、2024年は日本遺産などのコラボ展示を行うなどの取り組みも行ってきました。

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2019年「天下の行方−大坂の陣その後−」の様子

お城EXPOが10周年を迎える今年は、城郭や城郭に関する歴史や文化について、これまで取り上げてこなかった視角と領域から展示を用意しました。
この視角とは民俗的なものであり、領域とは呪術・信仰・怪異です。

民俗的な視点と城郭やそれらにまつわる事象を結び付けてみることは、来城者の皆さまにとってはノイズとなることかも知れません。
しかし、この視座を持つことで、様々な歴史や文化、そして文化財を結び付けて考えられる、つまり、城郭をめぐる時の楽しみ方がきっと増えると考えました。

お城EXPO2025

そこで、今回のテーマ展示では呪術・信仰・怪異の領域をエンターテインメントに昇華した、創刊46年の歴史と実績を誇るスーパーミステリー・マガジン『ムー』(株式会社ワン・パブリッシング刊)にご協力を賜りました。 スーパーミステリー・マガジン『ムー』は言わずと知れたオカルトや怪異現象に超常現象を取り扱った雑誌です。これまでの記事の中には、城郭や武将に関連する記事もあります。

その中で2022年1月号の総力特集「日本を動かしてきた「呪術」の謎」の中から、第2章「戦国の呪術戦争と徳川家康の最終呪法」を公開展示します。その誌面には「軍師による魔法」、「戦国武将から信仰された摩利支天」、「戦場に随行した密教僧と山伏」、「毛利VS尼子、武田VS上杉の呪術戦争」、「みずからの遺骸と霊刀を西に向けよ」、「久能山と日光による呪的防衛ライン」という刺激的な小見出しが並び、豊富な内容の記事が展開されています。

当展では呪術・信仰・怪異の視点で捉えなおし、戦国時代から江戸時代の呪術・信仰・怪異についてたどる展示を行います。

【1.軍学の呪術】

前近代は呪術が一般的な時代という見方ができます。例えば、熊野修験の霊場である熊野三山、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社が発行した牛王法印は護符としての役割と、裏面に神仏に誓う形式をとる起請文の料紙として広く用いられていました。これは熊野権現に対して誓約するという意味がありました。

また、戦国時代の戦でも、呪術や怪異から状況を読み解く技法が用いられていました。江戸時代に広く学ばれた甲州流軍学の軍学書 『甲陽軍鑑』には、天文19(1550)年3月に武田晴信(信玄)と上杉景虎(謙信)の軍勢が対峙した際に「景虎は一万の人数を一手のごとくにくみあはせ、一のさきの二の手に我旗本をたて既でに合戦はじまる時晴信公御旗本の上に黒雲の、まろきやうなるが景虎の旗本の上へ吹きかけ、しかも景虎衆惣人数の上にて此雲散りたるを見、景虎さいはいをとつて早々引あげ我旗本の備を人先につれて引いれ給ふ」とあります。これは、景虎が雲の動きを不吉と見て撤退したという意味です。景虎が雲の動きという自然現象から怪異や神秘的なものを見出し、そこから軍勢の撤退という判断を下したことがうかがえます。

これに類似する事例として、江戸時代初期の軍学者小笠原昨雲による元和4(1618)年に成立したとされる軍学書『軍法侍用集』の「立気吉凶」には城郭にかかる気の分類と、その読み解き方が図説されています。それによると、気の色や季節ごと、見えた日の十干十二支を踏まえた解釈が詳細に書かれています。

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『軍法侍用集』(東北大学付属図書館蔵)

現代の我々は気を見ることは出来ません。呪術というと、こちらから神秘的な力で働きかけることで有利な状況や願望を達成する意味がありますが、気という見えないものを見出し、その形や色を季節や日時を解釈し、適切な判断を下す神秘的な技術という意味では呪術といえましょう。

これらを読み解き、記述する言葉は古代中国に端を発し陰陽五行思想に基づいたものですが、この思想は前近代の多くの人々にとって、山岳信仰に仏教(密教)や陰陽道、道教などが習合した修験道を通じて受容されました。この点において軍学の中には修験道の影響を色濃く受けていると言えましょう。

修験道が人々に広く受容されていた主要な例として、江戸時代には平安時代初期の修験者で信濃国戸隠や越後国の蔵王権現、遠江国秋葉山で修業したという伝承がある三尺坊を神格化した秋葉三尺坊大権現が火防の神として広く信仰されました。江戸の人々がお伊勢参りをする際、結構な割合で道中にある遠江国(現、静岡県西部)秋葉山を参拝しました。また、秋葉三尺坊を祭る秋葉神社は江戸をはじめ全国に勧請され、現在でも秋葉原の地名の由来となっています。

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「秋葉三尺坊大権現蔵」
 

【2.城郭の秘術】

戦国時代において、戦の場では神仏習合が実践の形で体系化された修験道の色濃い影響がありました。
このコーナーでは、越前国(現、福井県嶺北地方と敦賀市)の戦国大名朝倉義景に伝わったとされる『築城記』と、熊本藩士に伝わった石垣の組み方に関する『築城秘伝之書』を中心に築城に関する呪術や秘術について見ていきます。

築城にまつわる呪術や秘術と呼ばれるものとして良く知られるものとして人柱と転用石があります。
人柱とは城郭普請(工事)の安全と成功を祈って人が生贄となる習俗です。この伝承は福井県坂井市の丸岡城や広島県福山市の福山城など数多くの事例が知られています。丸岡城天守のそばには、築城時に石垣普請(工事)に難航した際に人柱となったとされるお静を供養するための祠が存在します。

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お静を祀る祠

また、転用石は墓石や灯籠、石仏や五輪塔などの信仰に関するものや石臼などの生活道具などが石垣などの城郭の建材として使用されたものです。大和郡山城や福知山城、安土城が転用石を用いた城として良く知られています。この理由は良く分かっていません。築城に際して石材が足りずに使える石材を転用したものと考えられます。

次に『築城記』と『石垣秘伝之書』から、築城の呪術や秘術について見ていきます。
『築城記』には、塀の高さや木戸や横狭間の形状や寸法、塀や矢蔵の高さなど具体的な数値が記されています。最後の奥書に「可秘ゝ、如件。(秘すべし、秘すべし、件の如し。)」とあることから、秘伝として窪田家に伝えられていたことが分かります。その内容は呪術的なものでは無く、技術的なノウハウに関するものでした。「石垣秘伝之書」は、延宝8(1680)年に熊本藩に仕えた野口営秀が石垣に関する技術を一子相伝するために書かれました。ここでも「口伝」や「秘伝」とある箇所は技術や計算を指し示しています。
このように、築城の秘術には人柱など呪術的な要素が強いものもありますが、『築城記』や『石垣秘伝之書』の記述のように口伝や秘伝と書かれた秘術は技術的なノウハウに関する内容でした。

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『築城記』(国立国会図書館蔵)


【3.城郭に祭られた神仏】

次に城郭に関する信仰の面について見てきます。
城郭を訪れると祠や仏堂をよく見かけます。これらに祭られた神仏は多岐に及びます。城郭の祠や仏堂に祭られた神仏や伝承について紹介します。

パシフィコ横浜がある神奈川県の相模原市緑区にある津久井城には飯縄権現を祀る祠が存在します。飯縄権現(明神)は長野県長野市 上水内郡飯綱町・信濃町にそびえる飯縄山の山岳信仰から派生した修験道の信仰対象で、武田信玄と上杉謙信が篤く信仰していました。同じく横浜市都筑区にある小机城には大口真神を祀る祠が存在します。大口真神とは狼を神格化したもので、東京都青梅市の武蔵御嶽神社や埼玉県秩父市の三峰神社などで祭られています。これらの神社も修験霊場として知られています。

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津久井城飯縄曲輪の飯縄神社

天守に祭られている神としては小田原城の祀られている摩利支天や松本城の二十六夜神、姫路城の刑部大神が有名で、備中松山城の天守には神仏を祀る棚が設置されています。摩利支天は敵の調伏や形を隠すことが転じて災いを避ける効能があるとされました。武士や忍者などの間で広く信仰され、密教や修験道と深いかかわりがありました。

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「摩利支天像」

松本城の二十六夜神は「二十六夜神を祀り、毎月26日の夜に3石3斗3升3合3尺(約500㎏)の米を炊いて供えれば城が栄える」というお告げを受けたという伝説が知られています。この神は特定の月齢の月を拝む月待信仰と結びついた神で、本地仏は愛染明王です。しかし、江戸の二十六夜待ではこの日の月の出から阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が現れるとされ、大いに流行しました。

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「愛染明王像」

姫路城の天守最上階に祀られている刑部大神は、路城が築城される前から同地に祭られていた地主神です。初代姫路藩主池田照政が病気になった際に天守に祭られたと考えられます。この神は、江戸時代から明治・大正時代頃までオサカベ(長壁)という妖怪として、宮本武蔵に退治されるなど、城内の妖怪や怪異を引き起こす存在として多様な表象で描かれました。その到達点として大正6(1917)年に泉鏡花が発表した戯曲『天守物語』があります。

また、築城に関する伝承の代表的な事例として、狐や稲荷神が城郭を建てる位置や縄張りを教えたという狐築城伝承があります。これは群馬県前橋市の厩橋城や同県舘林市の舘林城、新潟県新発田市の新発田城、福島県会津若松市の会津若松城など多くの城郭で見られます。そのためか城内に稲荷を祭る祠は数多く存在します。

ここで紹介したものはごくごく僅かに過ぎません。皆さまは全国の城郭に足を運んだ際に、その傍らにある祠や仏堂に注目すると、今までの城巡りとは別の見方できるかもしれません。

【4.神となった武将・大名】

次に武将や大名に関する信仰の面について見ていきます。この点についても多岐に及ぶので、ここでは没後に神として祭られる武将や大名について見ていきます。
神となった武将や大名は数多く存在します。これらは徳川家康の東照大権現や豊臣秀吉の豊国大明神など、(1)権力者の自己神格化のパターン、(2)藩主信仰に代表される、おおむね江戸時代後期以降に増加する、人々が地元の藩主に神性を見出し、崇拝・信仰の対象とするパターン、(3)(2)に加えて、他の信仰や流行神の要素が付加されたパターンです。

(1)は没後に神となることによって、自らの権威の永続化することを目指すものです。徳川家康の場合、金地院崇伝の日記「本光國師日記」に「一周忌も過候て以後。日光山に小キ堂をたて。勸請し候へ。八州之鎮守に可被爲成」と、家康は没後に自らが関八州(現関東地方)の鎮守となる意向を示しています。家康の神格化は、3代将軍家光の10回もの日光社参や寛永13(1636)年の大規模改修によってさらに強固なものとなりました。

(2)は神となる武将・大名の中では最も多いものです。様々なパターンが考えられていますが、特に、江戸時代後期以降に神主など地方の知識人層らによる地誌編纂が盛んとなり、地域の歴史や民俗、由緒への関心が高まり、地域への意識が形成され、その紐帯として藩主信仰が形成されたことは注目に値します。

(3)神となった武将や大名の中で広く信仰されたものとして加藤清正公信仰があります。清正公を祭る寺社は384にも上ります。当初は、豊臣秀吉の豊国信仰の影響を受けながら、加藤家や家臣・領民による顕彰神としての側面で形成された後に清正が信仰していた日蓮宗の寺院や宗教者を媒介して伝えられ、清正の200回忌の文化7(1810)年頃に流行神として人々の間に広まりました。このような複合的な要素で広がった点では清正公信仰は(1)と(2)のパターンには当てはまらない独自の信仰であったと言えましょう。

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「加藤清正公像」

【おわりに】

『ムー』の記事を入口として、戦国時代から江戸時代前期を中心に城郭や戦国武将に関連する民俗的要素、呪術・信仰・怪異について紹介しました。これらを概観すると、山岳信仰に仏教(密教)や陰陽道、道教などが習合した修験道の影響が大きく見受けられました。修験道の要素は信仰だけではなく、『甲陽軍鑑』に登場したように雲を見て上杉景虎(謙信)が軍勢の撤退を決めたり、『軍法侍用集』の城郭の上に表れた気の形状で状況判断したりするなど、人との約束・契約から眼に見えない気や場の流れなどまで、人々を取り囲む世界を分節し理解する手立てにもなっていたことがうかがえます。この意味において、呪術・信仰・怪異もまた、世界を分節した理解するために生成され、城郭に祭られた神仏が多様性に富んでいるのも、その表れであると言えます。

科学的な見方を自明のものとする現在からの視座では、当展示で紹介した内容は胡散臭さやオカルトとみなされやすいです。とはいえ、『築城記』や『石垣秘伝之書』に記された、同時代の築城や石垣に関する技術は、論理的に伝えられていました。当時の人々からすればどちらもリアリティがあるものとして存在していたとするのが妥当でしょう。

当展で行う『ムー』の視座とお城EXPOの視座から眺めることによって、来城者の皆さまが戦国時代から江戸時代にかけての城郭や武将・大名に対する見方の幅が広がり、城郭や武将・大名を民俗的な視座から眺めることに興味を持ってもらうことができましたら幸いです。

執筆・画像提供/山野井 健五
1977年生まれ。2009年成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学、川口市立文化財センター調査員、目黒区めぐろ歴史資料館研究員、東京情報大学非常勤講師を経て、現在、(株)ムラヤマ、お城EXPO実行委員会。専門は日本中世史。主な業績として「中世後期朽木氏における山林課役について」(歴史学会『史潮』新63号、2008年)、「中世後期朽木氏おける関支配の特質」(谷口貢・鈴木明子編『民俗文化の探究-倉石忠彦先生古希記念論文集』岩田書院、2010年)監修として『学研学習まんがシリーズ まんがで読む 平家物語』(Gakken、2022年)、『学研まんがNEW日本の歴史4 武士の世の中へ』(学研プラス、2012年)