家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第9回 久野城

NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が、三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」。第9回は、今川家の家臣から家康に従うようになった久野氏の居城・久野城(静岡県袋井市)です。久野氏が徳川方に転じていった変遷をたどりながら、久野城の役割と構造がどのように変化していったか見ていきましょう

駿府今川館の支城だった久野城

久野城の歴史は古く、明応年間(1492~1501)の築城といわれている。城主はこの地の豪族久野氏で、守護大名から戦国大名へと転化を遂げる今川氏親の家臣となっていた。その頃の城名は座王城といった。城内に座王権現が祀られていたことからその名があるという。

ちなみに、永正7年(1510)に座王城すなわち久野城で戦いがあったことが「本間宗季軍忠状写」(「本間文書」)から明らかで、今川氏と斯波氏との戦いにおいて、今川方の城として重視されていたことがわかる。このときの城主は久野佐渡守宗隆であった。

その後、久野城は織豊期、さらに近世城郭としても使われ続けたため、戦国期久野氏時代の城がどのような規模の縄張だったかはわかりにくくなっているが、低湿地がまわりを囲む平山城としての景観は同じだったものと思われる。発掘調査によって、当初の久野氏時代の城は山頂部の本丸、それに続く南の二の丸およびさらにその南の高見とよばれる部分と北の丸の部分と考えられている。

久野城、本丸
久野城 本丸

「遠州忩劇」で久野宗能が徳川方に

永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いまで、久野氏は今川義元の家臣だった。ところが、桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれたことで様相が違ってくる。今川方だった三河の松平元康が今川家からの自立を図り、徳川家康と名前も変えて遠江の今川領に触手を伸ばしはじめたからである。義元の跡を継いだ今川氏真は、これを「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と表現している。

その頃の久野城主は久野宗能(むねよし)だった。家康は久野宗能に、「今川から離れ、自分の味方になるように」と迫ってきた。一族の中には、「このまま今川陣営にとどまるべきだ」と主張する者もあったが、宗能は子千菊丸を人質として出し、家康に従っている。家康としても、永禄11年(1568)12月から翌年にかけての懸川城攻めを進めるにあたり、その最前線に位置づけられる久野城の重要性を重くみており、早目の調略を進めたものと思われる。

さらに、家康が武田信玄と対立するようになると、久野城は対武田戦略上も重要になり、家康の財政的さらには技術的支援も得て、城の拡張工事が取り組まれている。山麓部分の東の丸・南の丸・西の丸を新たに築き、本丸の北側に大規模な横堀を入れたのもそのときのことといわれている。現在見ることのできる久野城のほとんどは、すでにこの頃形ができあがったものと思われる。

久野城、三の丸切岸
久野城 三の丸切岸

さて、その後の久野氏であるが、天正18年(1590)の家康の関東移封に伴い、下総の佐倉城(千葉県佐倉市)に移されている。それに代わって久野城に入ったのは豊臣大名の松下之綱である。之綱は松下加兵衛の名で知られ、浜松の頭陀寺城(ずだじじょう)主だったとき、信長に仕える前の秀吉を養ったことで有名である。

松下氏は之綱・重綱と2代久野城主となったが、再び久野宗能が隠居の形で久野城主としてもどっている。ところが、宗能はまもなく病没し、結局、慶長14年(1609)、宗能の孫の宗成(むねなり)が久野城主となった。そのまま久野氏が久野城主を世襲すると思われたが、宗成は元和5年(1619)、徳川御三家の紀州藩主徳川頼宣の付家老として、伊勢田丸(三重県度会(わたらい)郡玉城(たまき)町田丸)に移されているのである。

最後の城主は北条氏重で、氏重は保科正直の4男で武蔵玉縄の北条氏勝の養子となっている。この氏重が寛永17年(1640)、下総国関宿へ移封となり、久野城はまもなく廃城となった。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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