2023/11/01
家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第8回 牧野城
NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が、三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」。第8回は、家康が武田氏から奪った諏訪原城を改称し、松平家忠をはじめ複数の家臣が「定番衆」として城番を務めた牧野城(静岡県島田市)です。城主の変遷や修築など、家康の支配下となってからの歴史や城郭の変化について見ていきましょう
武田時代の諏訪原城を牧野城と改称
武田信玄死後、武田軍を率いることになった勝頼は、父信玄の遺志を継ぎ、遠江侵攻を続け、その拠点として、天正元年(1573)、大井川西岸に諏訪原城(島田市菊川)を築いた。武田の軍神諏訪大明神を城内に勧請したことからその名がある。
ところが、同3年(1575)5月21日の長篠・設楽原の戦いで、勝頼が織田・徳川連合軍に大敗を喫したことにより形勢は逆転し、家康が武田に取られた城を奪回する動きに出た。早くも、その年6月24日には光明城(浜松市天竜区山東)を落とし、8月24日には諏訪原城も落としている。
家康は、この諏訪原城が堅城なのに目をつけ、そのまま自分の城として再利用することにした。しかし、武田の軍神の名を冠した城名は気にいらなかったとみえ、牧野城と改称している。武田流築城術の巨大な丸馬出はそのまま使っているが、発掘調査の結果、武田時代の薬研堀を箱堀に造り変えるなど、若干の手直しをしていたことが明らかになっている。

諏訪原城改め牧野城の丸馬出
家康はこの牧野城に今川氏真を入れている。いうまでもなく、氏真はあの今川義元の子で、永禄11年(1568)から翌年にかけての戦いで、武田信玄・家康に領国だった駿河・遠江を奪われ、この頃は家康の客分の形で家康の厄介になっていた。家康としては、氏真が懸川城に籠城して家康軍と戦っていたとき、「駿河を取りもどしたら、駿河をお返しします」という講和条件を持ち出し、氏真がそれに応じたことに感謝していたからかもしれない。牧野城は駿河との国境ではあるが遠江である。城からは駿河がよく見えるので、家康としては、駿河を武田から奪回するため、城主に氏真を入れたものと思われる。
城の修築に当たった松平家忠
家康としても、氏真の武将としての力量に不安があったのであろう。氏真の補佐役に松井忠次を指名している。この忠次は東条松平で、『寛政重修諸家譜』によると、家康から偏諱(へんき)を賜り、松平康親と名乗ったとされるが、同時代史料からは確認できない。
家康が危惧した通り、氏真を牧野城主としておくことは全体の士気にかかわると考えたのであろう。天正5年(1577)3月、城主を解任し、浜松に引き上げさせている。この氏真解任により、松井忠次が牧野城の城番となった。
もっとも、城番は松井忠次一人ではなく、当時の表記で「定番衆」と書かれているように複数だった。その「定番衆」全体のトップが松井忠次だったのであろう。「定番衆」として名が見えるのは、松平家忠・牧野康成・小笠原安次・西郷家員らで、これは、松平家忠の日記『家忠日記』に記されている。

諏訪原城改め牧野城の復元された城門
そして、この『家忠日記』によって、今川氏真が城主を解任された後の牧野城の修築工事が大々的に進められたことがわかるのである。日記によると、家忠は自分の本拠地三河の深溝(ふこうず)から、天正6年(1578)8月7日に牧野城に入り、8日から堀普請を開始し、20日に完了したという。このときの堀普請が具体的にどこのことかはわからないが、家康は、武田流築城術を踏襲しながらも、その規模を拡大していたことがわかる。
この後も家忠は牧野城の普請に従事しており、また、何度も城番となって牧野城に詰めていた。日記によると、その城番は、約半年毎に番が回ってきて、約1ヵ月滞在するのが恒例だったことがうかがわれる。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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