家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第7回 岡崎城

NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が、三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」。第7回は、家康が天下統一の基礎を固めた拠点であり、家康に長年仕えた家老の石川数正が城代を務めた岡崎城(愛知県岡崎市)です。数正が城代を務めるまでの歴史と、彼が家康の元から出奔した際の興味深いエピソードを紹介します。

西三河の旗頭石川数正が城代に

いうまでもなく岡崎城(愛知県岡崎市)は、徳川家康が本拠を遠江の浜松城(静岡県浜松市)に移すまで、松平・徳川氏の本城であった。しかし、家康が本拠を岡崎城としていた段階でも、石川氏との関係が深かったのである。

家康は、永禄6年(1563)から翌年にかけて三河一向一揆を平定し、三河一国を領国とすることに成功すると、三河国を西三河と東三河の二つに分け、西三河の中心を岡崎城とし、東三河の中心を吉田城(愛知県豊橋市)とした。このとき、西三河の国衆および譜代部将を指揮する旗頭として石川家成を指名し、東三河の旗頭として酒井忠次を指名し、この二人を「両家老」とよんだ。酒井忠次が吉田城に入り、石川家成が岡崎城に入った。岡崎城には家康自身が在城しているので、石川家成の場合、立場は城主というより城代である。

その後、家康が武田信玄と結んで今川氏真を逐(お)って遠江を手に入れると、家成を懸川城主とし、西三河の旗頭と岡崎城代の地位は家成の甥にあたる石川数正に譲られている。そして、元亀元年(1570)に家康が浜松城に移るとき、家康は岡崎城主として嫡男の信康を入れている。

岡崎城二の丸堀
岡崎城二の丸堀

ところが、その信康が天正7年(1579)、信康事件とも築山殿事件ともよばれる一件で自害させられた結果、以後、石川数正単独で岡崎城代の時代がしばらく続くことになる。

織田信長在世中は、家康の使者として信長のもとに赴いたのはもっぱら酒井忠次だったが、本能寺の変で信長が死んだあと、力をつけてきた羽柴秀吉との折衝役はどういうわけか酒井忠次ではなく石川数正であった。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い後、家康から秀吉に戦勝祝いに名物茶器として知られていた初花肩衝(はつはなかたつき)を持参したのも石川数正であった。その後も、秀吉との外交交渉は数正が担当している。

しかし、結局、家康と秀吉は直接対決することになった。翌天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いである。周知のように、この戦いは、後半戦の長久手の戦いでは家康が勝ったものの、大局的には秀吉の勝利といってよく、家康も講和に応じたものの、臣従することは拒み続けていた。そのような折、一大事件がおこる。数正が秀吉に引き抜かれてしまったのである。

石川数正の出奔とその後

秀吉への臣従を拒み続ける家康の態度は変わらず、秀吉との間で板挟み状態となった数正はとうとう翌年11月13日、岡崎城を出奔し、秀吉のもとに走っている。「一枚岩の鉄の結束」などといわれた徳川家臣団に綻びがみられた瞬間である。このとき、興味深いエピソードが伝わっている。

岡崎城本丸堀
岡崎城本丸堀

重臣筆頭といってよい岡崎城代石川数正の出奔という事態に動顚した家康が、「困った。岡崎城を誰に任せたらいいんだ」と独り言をいった。近くにいた者に相談をもちかけたわけではなく、困惑したときの独り言だったわけであるが、たまたま、側にいた本多正信が、すかさず、「本多作左衛門重次になさりませ」といったという。家康もその一言で我に返り、城代を本多重次としているのである。

このとき、正信が、「そうですね。誰がいいでしょうか」と一緒に悩んでいたら、その後の正信はなかったかもしれない。このことがあってから、正信は家康のよき相談相手となり、「君臣相遇うこと水魚の如し」などとよばれるようになるのである。本多重次の岡崎城代は天正18年(1590)の家康の関東転封まで続くことになる。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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